不毛な中傷合戦を生む、「叩けば自分の得」思考
もし、仮に日本人が二大政党制を捨てるとすれば、それは歴史上2度目ということになる。
よく知られているように、戦前の日本でも大正末期の普通選挙法以降は、おおむね今日の自民党に相当する立憲政友会と、民主党に近い立ち位置の立憲民政党(当初は憲政会)という二つの大政党が、交互に政権を担当する状況が成立していた。
「だから、現在でもやればできるはずだ」というのが、民主党政権以前によく聞かれた歴史観であったとすれば、これからの私たちは「どうして、何度やってもうまくいかないのか」を説明する、新たな語りを持たねばならない。
筒井清忠『昭和戦前期の政党政治 二大政党制はなぜ挫折したのか』は、その嚆矢となる一冊である。
選択肢が二つしかない政党制は、対立党を叩けば自動的に自党の得点になるため、政治家をバッシングやネガティヴキャンペーンに走らせやすいインセンティヴを持つ。
戦前では、政友会が火をつけた統帥権干犯問題や、天皇機関説問題が典型とされてきた。しかし筒井氏によれば、その起源はさらに古く、かつ民政党の側が加害者となった事例も多い。
スキャンダル政局の元祖となったのは、憲政会の第1次若槻礼次郎内閣下で発生した朴烈怪写真事件(1926年)だった。大逆罪の容疑者であるはずの朴烈と金子文子が、予審調室で抱き合う写真が流出したものである。
これが、彼らが無期懲役へと恩赦を受けたこともあって(朝鮮統治への影響を懸念したものとも見なされた)、不敬事件として政権攻撃の材料とされた。大正期の開放的な空気の下、メディア上では朴と金子の「悲恋」がむしろ同情的に報じられがちだったことも、国家主義者の神経を逆なでしたとされる。
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