そんな有本もマクドナルドにデビューしたのはアルバイトからだ。名古屋育ちの有本は大学入学のため上京してきた。本当にやりたかったアルバイトは効率のいい家庭教師。見つかるまでのつなぎとして、マクドナルドに電話したはずが、いつのまにか30年近くかかわることになった。
マクドナルドは71年7月に銀座1号店をオープンしてから数年がたった程度。有本がアルバイトを始めた75年には店舗数が50~60店で、全店売上高の合計が100億円の大台をようやく突破した頃だ。
新宿店でのバイトは楽しかった。仲間は同世代の学生ばかり。仕事はスピード感があり、活気にあふれていた。店舗に行けばいつも誰かが働いていて、チームの一員として仕事をすることができた。毎日叱られてばっかりだった。お客からかかってきたクレームの電話。話をしているうちに頭にきて逆ギレしてしまい、店長からスーパーバイザーにまで連絡がいって、あいつは何様だと問題になった。それでも「大人になるためにいろんなことを学んだ」と有本は当時を振り返る。
「パン屋の小僧になるのか」親に勘当される
4年間で4人の店長に仕えた。4年目の店長は、のちに藤田田(でん)の跡を継いでマクドナルドの2代目社長になる八木康行だった。厳しい店長だったが、どうやってアルバイトを注意するのか、叱るのか、モチベーションをあげるのか、実地で学ぶことができたという。
マクドナルドのオペレーションには定評がある。ただそれだけで強烈な“マックバカ”になるわけではない。今も昔も変わらず、マクドナルドを支えるのは「人を育てる」「人に教える」文化だ。アルバイトの4年間を通じて出会った店長に影響されたことが有本の人生を決める。
有本は大学を卒業してからマクドナルドへ入社した。有本には躊躇はなかったが、両親は「早稲田まで行ってパン屋の小僧になるのか」と言い放った。今でこそ圧倒的な知名度を誇るマクドナルドも、当時、名古屋には、まだ1店舗しかなかった。「半分、勘当みたいなもので数年間は会わなかった」と有本。
79年に入社してから2年後に自由が丘店(目黒区)の店長になった。当時24歳、一気に年商2億円、80人のアルバイトを管理するポジションに就いた。気合いは十分でも、全然ダメな店長だった。ユニフォームが気に入らないのでピンクのワイシャツを着て出勤して、大目玉を食らい、自由が丘店の次に配属になった三軒茶屋店(世田谷区)では排気ダクトの色を勝手に塗り替えて、塗り直しを命じられた。
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