前回東京五輪を成功させた池田勇人の信念 真のリーダーシップとは何か

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――そうした背景のなか、国民にオリンピックは受け入れられていたんでしょうか?

それがじつは、1964年の東京オリンピックのときも開催に反対する声は大きかったんです。「オリンピックを日本に呼ぶなど10年早い」とか、「オリンピックが来ても絶対に見に行かない」という声も聞かれたようです。当時も今と同じように開催に向けて問題は山積していましたし、それに対する批判や、明確な反対を示す人は少なくなかったのです。

――それは意外ですね。

それでも、敗戦後のGHQの占領下からようやく抜け出し、やっと自由を手に入れて、成長の端緒についた日本にとって、東京オリンピックは国民が尊厳と自信を取り戻す象徴でもありました。日本はようやくここまで復活した、ということを国際社会に向けて、アピールする絶好の機会がオリンピックだったのです。

――池田勇人首相は、その機会を存分に活用したわけですね。

池田勇人は日本経済がこれから大きく伸びると確信していました。その起爆剤として、オリンピックは最高の存在だと考えたのです。また、国民の気持ちを一つにして、経済成長を担う人々を鼓舞する絶好のチャンスだと。戦後の復興期から、経済の成長期へと、手応えを感じ始めた人たちにとっては、オリンピックは意義あるものに映ったはずです。池田の狙いもそこにありました。

池田が革新的だったのは、日本で初めて政治に「経済」という観点を持ち込んだことです。今では首相が、経済成長率やGDPの目標額を公約することは当たり前となりましたが、経済政策を政府の目標の中核に据えたのは、池田内閣が初めてのことでした。

池田は就任してすぐの1960年、「所得倍増計画」という非常にキャッチーな政策を打ち出し、「10年間でGNP(国民総生産)を倍にします」と宣言しました。さらに「自分が就任してからの3年間は、成長率9%を約束します」と明言したのです。そういう言葉を国民に向けて発表することが、人々を奮い立たせることになるとは、それまでの政治家は考えもしなかった。その意味で、日本を「政治の時代」から「経済の時代」へと転換した、ものすごくエポックメイキングな政権を作ったのが池田勇人だったと私は考えています。

熱しやすく冷めやすい日本人

――『この日のために』には、池田とともにオリンピックの実現に奔走したそれぞれの分野のキーマンが出てきますね。

オリンピックをきっかけにして、各分野でさまざまな技術革新が進んだ時代です。それぞれに小説の主人公になり得る魅力的なヒーローが誕生した時代でもあります。たとえば、第四代国鉄総裁の十河信二。東海道新幹線建設を牽引した立役者です。総工費は約3000億円かかるだろうと感触を得ていたものの、それでは国会を通らないだろうと、あえて半分に削って上程し、建設を強硬に進めています。国会と国民を欺いたことにはなりますが、それは新幹線が必ず必要だという強固な信念があったからです。十河は刺し違える覚悟で、辞任と引き換えにしてでも新幹線を造ろうとしたわけですね。

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