哲学が教える「人工知能は恐れるに足らず」 2400年前から伝わる「人生の指針」
「〈魂〉の声に背くことは、絶対にしてはいけない。それは自分の生の価値をおとしめて、人生を生きるに値しないものにする行いだ」と。
「自己欺瞞(自分で自分のことをあざむくこと)」は人間特有の病です。私たちは、この病にとらえられることのないように、自分のしようとしていることが〈魂〉の奥底から湧きあがる欲求に反していないかを、きびしく取り調べる必要があります。
汝自身を知れ
したがって、魂をより善いものにするために真っ先にしなければならないのは、自分自身を知るということになります。
「汝自身を知れ」という格言は、もともとは「思いあがるな。お前は死すべき人間なのだ」という戒めでした。この戒めを、ソクラテスは、「人間の知恵などたいしたものではない。だから、みずからの無知を自覚して知恵を愛し求めなさい」というアポロン神からのメッセージ(いわゆる「無知の知」)として解釈しました。
かくして、話はふり出しに戻ります。人間の“人間としての善さ”は何か、”人間としての美点“はどこにあるのかというと、「それは探究の生にある」というのが、ソクラテスの最終的な答えです。人間的な善さは、自分の弱さを直視して、自分の〈魂〉をできるだけ優れたものにするべく徳と知とを求めて探究しつづける、そうした生のあり方にあるというのです。
自分の無知をはっきりと自覚して、その認識をバネに精神の向上に努めようとする活動を、ソクラテスは「知」(sophia)を「愛すること」(philo)、すなわち「哲学」(philosophia)と呼びました。ちなみに、プラトンの作品『饗宴』では、同じ活動が「恋」(eros)として描かれています。ソクラテスにとって、「哲学」はある種の「恋」なのです。
人間は知者ではありませんが、かといって完全に無知であるわけでもありません。いわば、神と動物の中間の存在、あるいは現在の文脈で言えば、完全な知をもつ未来の人工知能と反省的な知をもたない動物の中間の存在であるわけです。本質的に中間的な存在である人間は、他人の顔色をうかがうのをやめて自分の生に向き合い、探求仲間とともに、ソクラテスが言うところの「哲学」、すなわち不断の自己探求を行いつづけなければなりません。
自分の弱さを見つめる勇気をもつこと。謙虚に、誠実に、そして情熱的に自己の生のあり方を向上させること。そこにこそ、人間の高貴さがあるのではないでしょうか。
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