「モンスターマザー」は、ここまで恐ろしい 加害者と被害者が入れ替わるまでのすべて
受けて立つ学校サイドには、数々のジレンマがあったものと推察する。生徒や保護者との信頼関係を前提に、性善説で成り立っているのが、学校という組織の宿命である。手荒い手段を行使せずに、教育的な観点から態度を変容させられなければ、負けに等しいという思いもあったことだろう。
だがバレー部員の名誉のことや、何よりも亡くなった裕太くんへの思いが、その種のイデオロギーを超越させる。学校関係者や保護者たちは一丸となって、立ち向かうことを決意するのだ。
一方で、学校側の闘いのプロセスからは、公人と私人との間におけるプライバシーの問題をめぐり、今後社会全体が考えていかなければならない課題も見えてくる。それは自らの潔白を証明するために、公が知り得た私の情報を公開することは、どこまで許されるのかという問題である。
この母子の問題は学校のみならず県教委や児童相談所なども、早い段階から把握していたという。だが公務員である彼らの前には、プライバシーの保護と守秘義務の壁が大きく立ちはだかり、追求の矢面に立たされても具体的な答弁ができず、袋叩きになっていたのである。
プライバシー保護の問題が不利を強いた
むろん、やみくもに許されるわけもないのだが、今回のような情報戦において、プライバシー保護の問題が一方に大きな不利を強いた側面は否定できない、また知り得た情報がグレーである場合には、逆にどこまで介入してよいのかという悩ましき問題も存在するだろう。
この事件については、TVや新聞でも数多く報道されてきた。だが、その時その時の途中経過をセンセーショナルに報じたものだけをつなぎあわせだけでは、真実とは180度違うものになってしまうケースだって存在するということは、記憶に留めておきたい。
一つの事件の全容を、きちんと世の中全体に示していくためには、時間も金も労力もかかる。しかも材料が揃った時には、世の中の注目度はすでに低くなっている可能性だって高い。それでも、おかしいと感じたことを、正しく世の中に知らしめていく行為は何ものにも代えがたい。ノンフィクションの面目躍如といったこの一冊が、一人でも多くの人に読まれることを切に願う。
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