ランボルギーニはなぜここまで急成長したか 「過去15年で販売12倍」の軌跡を追う
クルマ好きの方はご存じと思うが、ランボルギーニがアウディの傘下に入るまでには、本が一冊書けるほどの紆余曲折があった。
1962年にフェルッチョ・ランボルギーニによって創業されたアウトモビリ・ランボルギーニは、何人かの投資家がオーナーとなったり、倒産して政府管理となったりした後に、1987年にクライスラーの傘下となった。
再び混迷の時代に突入
ところが、安住の時代は長く続かない。当時クライスラーのトップだったリー・アイアコッカによる多角経営路線の行き詰まりによって、ランボルギーニは1993年にインドネシアのメガテック傘下へと移り、再び混迷の時代を迎えたのだ。メガテックのオーナーは、後にさまざまな疑惑に絡み、投獄されることになるトミー・スハルト(故スハルト大統領の三男)だった。
そうしたすったもんだを経て、最終的にランボルギーニをメガテックから買収したのがアウディだ。アウディが高級車「A8」に搭載されていた排気量4200cc・ V8エンジンの供給を打診した末の出来事だった。メガテックはランボルギーニにまったく投資を行わなかったのだが、それでも世界が認めるスーパーカーを年間数百台、それも300~400人程度の従業員で作り続け、ビジネスを成り立たせていたランボルギーニという不思議なメーカーに、VWグループの当時会長で、高級化路線を推し進めていたフェルディナント・ピエヒが注目したのだった。
そこからのアウディによるマネージメントはなかなかお見事だった。ランボルギーニは今までの歩みとは大きく違ったVWグループ流の明確なコンセプトによるブランド戦略に身を任せる。今までの、経営者は誰もランボルギーニの聖地であるイタリア・ボローニャ州にあるサンタガタの中に入っては来なかったし、その機能を一つひとつ吟味しようとはしなかった。
一方、アウディはすべてのプロセスを見直し、新たなランボルギーニを再構築した。アウディが賢かったのは、開発や製造をドイツに移管せずサンタガタに残したことだ。彼らはよくブランドのことをわかっている。ランボルギーニはサンタガタにあってはじめてランボルギーニなのである。そして、こういうスーパーカーの開発はモデナの風土でしかあり得ないということもよく理解していた。さすがといえよう。
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