南アフリカほどではなく目にも見えにくいが、日本でもすでに世代を超える「階級・階層化」が起こっている。それでは、誰がこの問題を解決できるのか? 悪い意味で階級意識のない、日本の学歴エリートたちには“見えない”問題かもしれない。しかし、階級や階層など目を背けたくなるような問題でも、それを事実として受け止めない限り、解決は難しい。これらの問題を事実として受け止めれば、「何のために学ぶのか」の意味もきっと変わってくるだろう。
教育政策・方針の議論が難しい理由は、どの視点に立つかによって答えがさまざまな上、それぞれの立場では「正しい」ことが多い点にある。上位校では、より良い教育の議論になるし、下位層の通う学校では経済面や、不登校や非行に関する議論になりやすい。会社に置き換えてみても、大企業と中小零細企業、業界トップとそれを追う企業では議論のテーマが異なるだろう。それと同じく、学校を一くくりにすることは難しい。
大切なことは、ミクロな視点から出た解答は必ずしもマクロな視点での解答と一致しないということだ。各学校が目の前の生徒を前提に採る教育方針と国全体で行うべき適切な方針は決して同じではない。
私が専門とする物理学では、統計力学の手法によってミクロとマクロの世界を繋ぐことができるのだが、教育の分野でそれを行うのは難しい。だからこそ、感覚的な議論に陥ることなく公教育の大方針とそれを評価・測定する指標を設定し、実態をもとに政策も決定をしていく必要があるのだ(戦後の教育政策では、「教育機会の均等」という方針のもと、地域・学校ごとのカリキュラム、教員の数や免許、学校の設備などがその指標となった。その結果、地域ごとの学力差も小さくなった)。
「公」教育の役割とは?
学校の先生と話をすると、教育とは「環境」を作ってあげることだという言葉が出てくる。「環境」には、教育の機会や経済面も含まれる。目が向きがちな「教育手法」も土台となる「環境」が整っていなければ機能しづらい。個人で環境を整えることが難しい場合は、公教育にその「環境」づくりを頼るほかない。私はこの階級・階層化された社会的な環境を、革命を起こしてすぐさま改めよ!!という類の人ではないため、地元鹿児島で可能な限り「環境」を整えようと活動を行っている(具体的に何を行っているかは次回に記す)。
「公」の精神があるといわれる日本社会において、一部しか知られていない「階級・階層化」という事実を、人々が広く認識した上でどのような変化が生まれるのかを見てみたい。何かにつけて「主体的に考える」という言葉を使い、「教育手法」ばかりを主張する日本の「公」教育の役割を、もう一度考えなければならないのだ。
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