日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ 「階級」を意識しない不毛な教育議論

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この事実を知らないかぎり、日本の学校生活の中で「階層」を感じることはあまりない。制度上、とてもフェアな日本の受験で成功する者は「頭がよく、勤勉で優秀な人」と認識される。そして、その成功の理由が子供の置かれた環境などの社会的要因ではなく、教育によるものだと信じられているから、最初に触れたような本が注目され、売れるのだ。

確かに教育の影響もあるのだが、そもそも書籍で紹介されているほどの労力と時間を子供にかけることのできる家が日本にどれ程あるだろうか? 最近、子供の貧困が話題になっているが、そもそも学歴に対する意識の低い家庭では、経済的な成功に結びつきやすい学歴を求めて努力する姿勢を身につけることすら、難しいだろう(もちろん「高い学歴=よく育っている」ではないが)。

また、相対的に所得の低い「地方」の子供たちが東京の大学に行くには、学費の他に仕送りも必要だ。相対的に所得の高い大都市圏の子供たちは学費のみで済む。筆者はいま、生まれ育った鹿児島で教育に関わる活動をしているが、大きな可能性を感じる生徒に「大学はどこを目指しているの?」と聞いても、「鹿児島から出てはいけないと家族に言われる」「勉強していると、親から嫌な顔をされる」と答える生徒が進学校にさえ相当数いる。この問題については、トップ大学に合格させる方法や主体的に物事を考えさせる方法の本を手に取って読んでも解決しないだろう。高度な教育手法の下で努力することができるという環境も、決して当り前ではないのだ。

真の「エリート意識」は階級を自覚したときに芽生える

東大入学者シェアトップ20の高校は、首都圏(90%)か地方の名門私立高校である。そこにいる学生の多くが同じような階層にいることは想像に難くないだろう(もちろん、例外もあり人々に希望を与えている)。しかし、親も子供も階層の意識のない日本社会において、階層から得られた「特権・権利」に気付く機会は少なく、受験の成功者にしても自分の成功については「自分は頑張った!」という感情を持つ者が多くを占める。特権を得た意識がないからこそ、そこから生じる「義務」についても考えが及びにくいだろう。

この連載の第7回ではオックスフォードで出会ったニコラス・デュボアを紹介した。南アフリカに生まれ、人種による階級・階層を目の当たりにして育った彼は、「自分は頑張ったけど、それ以上に”幸運”だった」と語る。「僕は、南アフリカの中では本当に恵まれた環境にいた。幸運だったと思う。南アフリカでいい教育を受けた人の多くは、よりよい収入を求めて国外に出て、いつの間にか故郷を忘れ、時にはさげすむ人もいる。でも、今の僕がいるのは、間違いなく南アフリカのおかげ。これだけいい環境で教育を受けられている。語学が得意だから、いろんな国のいろんな情報を知ることができる。南アフリカには僕にしかできないことがあるはずなんだ」と言っていた。

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