羽生結弦の魅力は「獣」に変わる瞬間にある

フィギュアスケートが与える深い印象と驚き

フリーの曲は「ロミオとジュリエット」。伝統的な悲恋の物語を演じることが命題であったのだが、その時にリンクにいたのは、とても生半可に主人公「ロミオ」を投影できるような羽生の姿ではなかった。喜怒哀楽に還元できる感情という言葉を寄せ付けない、理性を退けて、リンクの上で表現をするということ自体を揺るがすようなスケーターがいた。

序盤から4回転ジャンプ、トリプルアクセルと順調に流れていくまでは、その他のスケーターを見る目と同じような視線がスタンドから注がれていたと思う。一変したのは後半に向かう途中のステップから。そこで羽生は突如うずくまるように倒れた。スケート靴が氷のくぼみにはまるというアクシデント。体勢を立て直して即座に滑り始めたが、「ロミオ」を演じてきた1人の日本人の若者がそこから豹変したように感じた。体力的にきつく、スピード感、躍動感が失われるのが定石のはずの後半なのに、激しく肉体をむち打つようにしならせ、ジャンプを次々決め、肉体の限界をさらけ出すように乗り込んでいった。

「嘘としか思えない驚きの瞬間」だった

そして、吠えた。最後の見せ場となるコレオシークエンスに入る直前、なぜか理由はわからないが、羽生は吠えた。悲恋の物語の象徴と言うにはあまりにも異質な雄たけびをとどろかせるように。その瞬間、観客席からは顔、口の細かな動きまでは見えないはずなのに、一瞬の静寂の後、会場の熱気が急騰した。南仏の陽気さが生む「熱」とは異なる、羽生の動きが生み出し、波及させた「熱」が会場を覆った。それも突如に。そんな瞬間はそれ以降の大会では感じたことがない。

映画批評家にして、傑出したスポーツ批評も行う元東大総長の蓮実重彦氏は、著書『スポーツ批評宣言』の中で、こう記す。

「スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです」

「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。それを、運動することの『知性』と呼ぶことにしましょう。(中略)それを周囲に組織する能力を、運動することの『想像力』と呼ぶことにしましょう。『知性』と『想像力』とは1つになったとき、そこには動くことの『美しさ』が顕現します」

羽生の演技が終わり即座に考え込んだ。興奮と、驚嘆と、畏怖と。感情の波打ちに揺さぶられながら、この文章のことがよぎった。今のは動くということをあられもなくさらしてみせた滑りだったのでは。だから美しかったのではないか。それが1つの結論だった。スポーツを見ていて、嘘としか思えない瞬間を生み出せる逸材に出会った時間だったのだと。

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