「成功しなければ命はない」豊臣秀長の"言葉力"が強調された《墨俣城伝説》とは?

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当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)。平成3年4月に開館(写真:m.Taira / PIXTA)
城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)。平成3年4月に開館(写真:m.Taira / PIXTA)
天下人となる兄を支えた弟の豊臣秀長にスポットライトをあてた、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。豊臣秀長は、豊臣政権内ではトップリーダーである秀吉と家臣たちとのよき橋渡しとなりながら、対外的には兄の代わりに有力な戦国大名たちと渡り合うこともあった。その働きぶりから「理想のナンバー2」とも評されるが、一体どんな人物だったのか。連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第9回では、秀長の交渉力が強調された「墨俣城伝説」について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
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キリシタン大名の心を打った「秀長の言葉」

大和大納言──。そんな豊臣秀長の呼び名は天正13(1585)年8月、兄の豊臣秀吉より大和国を加増されて、後の天正15(1587)年8月に権大納言の官職を授けられたことに由来している。

ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀長はまだ信長に仕えたばかりで下積み時代だ(2026年2月時点)。それから約20年が経った頃のことだけあって、想像もつかないほどの栄達だが、実は出世してからも相変わらず兄には振り回されていた。

というのも、秀長が大和に入る2カ月前の天正13(1585)年7月11日、秀吉は関白に任官。その返礼として、禁中で能興行を催したかと思えば、同じく禁中の小御所で初めて茶会を催すなど、お祝いのイベントが相次いだ。

秀吉を補佐する秀長もおのずと多忙になる。それでも秀長は京での任務に追われながらも、領内には的確な指示を行い、郡山城を立派なものにし、城下町を栄えさせた。

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