《日本の危機を救った》2027大河主役「小栗忠順」はどんな人物か
小栗は酒を飲んだり、芸人を呼んで騒いだりすることに一切、関心を持たなかった。詩をたしなむこともせず、風流とは無縁のカタブツだったらしい。
書画を集めることは好きだったが、昔の人が書いた書画には関心を持たなかったという。「〇〇作」とあったところで、本当に本人が書いたものかどうかわかったものではない、というのだ。そのため、必ず書家の大家に目の前で書いてもらい、それを大事にしたという。
小栗は武術も熱心に学んだ。剣術は藤川整斎から免許皆伝を受け、柔術にも励んだほか、馬術や弓も得意だった。
そして田付主計に砲術を学んだことで、年配の与力(行政・司法・警察などの仕事)である結城啓之助と知り合うことになる。学問に優れた結城の開国論に刺激を受けて、小栗は「日本も開国すべきではないか」と考え始めたようだ。当時、幕府が500石以上の大型軍船の建造を禁じていることについて、小栗はこんな持論を唱えるようになる。
「今は三本マスト船の建造や使用を禁じられている。だが、もともと航海というものは日本の沿海だけに限って行うものではない。中国までも出かけて積極的に交易すべきものだ。三本マスト船を使わないわけにはゆかない」
これからの日本は造船の技術を向上させて、海外に出ていかなければならない――。海の向こうへと視野を広げたことが、やがて小栗の人生を大きく動かすことになる。
アメリカで交渉を任される
天保14(1843)年、17歳の小栗は初めて江戸城へ登城する。
文武の才を見込まれ、若くして徳川将軍の親衛隊「両御番」に抜擢されるが、「頑童」と呼ばれただけあってクセが強かったようだ。何度も役職を替えられたが、そのたびに復職を果たしている。小栗の能力はそれだけ必要とされていたということだろう。
プライベートでも、小栗は転機を迎えていた。22歳で林田藩の前藩主である建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚。29歳で亡くなった父の後を継いで、「又一」となった。
そんななか、大きな仕事を幕府から任されることになる。
安政6(1859)年に江戸幕府の目付(監察役)となると、その翌年の万延元(1860)年に日米修好通商条約批准書交換使節の一員として、小栗はアメリカへと旅立つ。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら