2位と1億円以上の差…「藤井聡太氏の凄み」プロ棋士のシビアな懐事情 「対局料の2割は20年後に払う!?」 かつての将棋界に実在したシステム

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この後、昭和30年代までに王座戦、九段戦から発展した十段戦(現・竜王戦)、王位戦、棋聖戦と次々に棋戦ができて、ほとんどの新聞に将棋の棋譜が掲載されるようになった。

昭和41(1966)年に四段になった河口俊彦八段は「1局の対局料で地元(横浜)のキャバレーが2軒回れた」と言っていた。当時は棋士も悪くない報酬をもらっていたのだ。

しかし世間がいわゆる「高度成長時代」と言われるときに、将棋界は全く収入が増えなかった。恐らく昭和30年代の後半から、私が棋士となった昭和49(1974)年の2年後くらいまで、15年程の間は横ばいだった。

棋士の給料は全く上がらなかった

会社員の初任給が1万円台の時から、8〜9万円へと上がった時代に、棋士の給料は全く上がらなかったのである。

当時、読売新聞主催の十段リーグは6名の狭き門で、先後2局ずつの10局で挑戦者を決めていた。対局料は1局2万円。昭和30年代の後半においては、この1局の対局料は会社員の月給くらいだったから、誰もが十段リーグを目指していた。

しかし、私が四段になった昭和49年の時点でもこの対局料は変わっておらず、「世間の人の月給が1万円の時代に2万円で、月給が10万円になっても2万円でした」と、冗談ともつかない言葉を聞いたことがある。

私が四段になった時にもらった月給(固定給)は、1万3000円。すでに世間の月給は、8万円程度まで上がっていた時代だ。「棋士になれなかったら、死ぬよりないか」と思って奨励会時代を頑張り、ようやくなれた四段がこれだった。

私は経理に「これが正規の金額ですか」と聞きにいったら、「まだあなたはすべての棋戦に出ていないから、これから上がりますよ」と言われた。

確かに毎月2千円くらい上がっていくが、1年後に2万8000円でストップした。これがC級2組の固定給だった。

私の5年前に棋士となった、先輩の池田修一七段は「この金額が分かっていたら、三段リーグは頑張れなかった」と言っていた。

将棋連盟がこんなに苦しかったのは、各社の契約金が全く上がらなかったからだ。当時、すべての対局料は名人位につながる順位戦のクラスで決まっていたから、朝日新聞社主催の名人戦の契約金が上がらない限り、他棋戦の契約金が上がる訳はない。

私が4年間、会館に住み込んだ塾生時代に、経理の部屋で棋士の給与明細を見てしまったことがある(随分ずさんな管理体制だったと後で思った)。

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