そもそも、この2つを比較すること自体が不毛であると気づくことが重要なのですが、どちらが大きな花を咲かせるか? という評価尺度でみると「ヒマワリ」となります。これが、子育てで言えば「偏差値」です。
偏差値や学力という尺度1つで小中高(大学も)の価値を測るというのはどう考えてもおかしいのですが、それが当然だと多くの人が思い込まされているのか、なぜか偏差値や学力で判断してしまうことが少なくありません。だから、現在のような多様化した社会では、職業の一極集中や住居の一極集中が起こり、人手不足が発生する分野が増えているのです。
植物を観察していると、それぞれの特徴を活かしながら多様に生息しています。人間だけが偏ってきているわけです。
これも、同質化を是とした教育の問題だと筆者は考えています。
もともと、どんな花が咲くかは種のDNAで決まっています。タンポポの種からはタンポポが、ヒマワリの種からはヒマワリが咲く。これは自然の摂理であり、変えることのできない事実です。これは人間も同じなのです。
それを限られたいくつかの尺度で測るから問題が起こるわけです。すると勝ち組、負け組という意味不明な言葉も跋扈(ばっこ)します。植物の世界には勝ち組も負け組もありません。
人間はもっと、自然界から学ぶ必要があります。
「比較」は終わりがない不毛な行為
子育ての場面で、ほかの子との比較はつい出てしまいます。
「お隣の子はもう九九を全部覚えたのに……」
「同じ学年なのに、あの子は運動が得意で活躍している……」
こうした比較は、親の「我が子に頑張ってほしい」という気持ちの表れでもあります。
しかし、比較には終わりがありません。勉強ができれば今度はスポーツ。スポーツで勝てば、今度は人間関係。何かをクリアしても、また次の比較対象が次々と現れます。
そして残念ながら、比較を繰り返すことで、子どもの心には「自分はダメだ」「自分は親を満足させられない」という感覚が積み重なっていきます。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら