人気のクラブは「神秘的な自己啓発の教えと、本格的なエクササイズのクラスを合体」させたもので、「体を変え、心を変え、人生を変えよう」といったフレーズを打ち出している。カリスマ的なコーチの下、若者たちはスマホを置いて、自己変革に挑戦し、その熱狂の真っただ中でリアルなコミュニティと出会うのだ。
日本においても状況はさほど変わらない。格差社会化が進展し、収入だけでなく、恋愛や人間関係も貧富が加速する中で、自己防衛の発想から「自分を変える」必要性に迫られている。その精神の古層には前述の通過儀礼への渇望がある。最終話の100キロ走破後の東京駅で抱き合うメンバーの一体感こそは、通過儀礼における「再統合」の高揚を示している。
『男磨きハウス』を「弱者ビジネス」といった視点で批判するのは簡単だが、大局的にはこのような社会潮流の1コマとして必然的に立ち上がってきたものであることにもっと目を向けるべきだろう。単に切り取り動画だけで叩いたり、製作者や出演者などを中傷することはお門違いであるだけでなく、本質を見誤った振る舞いといえるだろう。
「何もしなければ人生が詰む」と感じる自画像
わたしたちの社会が個人化し、自助を強いられるものになればなるほど、自己啓発ニーズは拡大するからだ。彼らは本気で自分の尻に火がつく環境こそを望んでいる。通過儀礼なき時代だからこそ、アテンション・エコノミー(注意経済)のリスクを理解した上で、通過儀礼エンタメを活用しようと意気込んでいる。
そう考えると、番組内で出演者が想像以上の過酷さに悪態をつくシーンは皮肉であるし、両義的である。社会が急速に崩壊していく中で、「何もしなければ人生が詰む」と「何かしたところで人生が詰む(かもしれない)」というジレンマに引き裂かれるわたしたちの自画像なのだ。
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