帰宅したら死んでいた猫、今も消えぬ喪失感。《韓国の人気エッセイが綴るペットとの暮らし》。いつかは別れの日が来るとわかっていてもーー
ハクはだんだん小さくなり、3キロ台後半だった体重が今では2キロちょっとになった。口内炎がひどく、よだれを垂らしっぱなしで歩き回るせいで、体からも家のあちこちからもきついにおいが漂っている。
でもハクは生きていて、強力な意思を持ってごはんを寄こせと叫ぶ。私はそのたびに、ひどく面倒だなと思いながらも生命の力強さを感じる。命あるものと関係を結び、愛するということは結局、その存在が弱くなり、病気になって消滅するまでの過程を見守ることではないだろうか。
いつかは別れの日が来ると知っていても
18年前に小さな子猫を初めて連れてきた時は想像もできなかった日常だ。
生の速度が異なる種同士が一緒に生きるということはつまり、最初から最後までがゆるやかな別れの過程なのだということを、繰り返される毎日の中で学びながら私たちは今も一緒にいて、今のところ幸いにも、ゴロみたいな急な別れを経験することなく過ごしている。
傷や痛み、喪失や苦痛を前もって予測し、ことごとく回避することが最高に幸せな人生の追求ではないはずだ。むしろ、そうすることで人生そのものが消えてなくなってしまうかもしれない。
将来、病気の年老いた猫と一緒に過ごす大変さがあり、いつかは私のもとを去っていってしまう日が来ることを知っていると仮定して、もし、18年前のあの出会いの日に戻ることがあったなら、この猫と共にする人生をあきらめるだろうか。
いつかは別れるとわかっていながら出会い、進んで愛し、その1つひとつの存在の特徴を鮮やかに心に刻む時間を重ねる。時には苦しみにもなる、そんな記憶が積み重なった人生の模様そのものが私たちの一生を作り上げていくのではないだろうか。
「ゴロが逝ってからしばらくは、濃くて深い喪失感が日常生活に支障を来すほどでした。時間が経つにつれ、悲しみは少しずつ薄れてきましたが、消えることはないでしょう。
ただ、その喪失感を抱えて生きていくのだと思います。この悲しみこそ、私たちがある存在と特別な関係を結んでいたという事実の痕跡ではないでしょうか。ほかの人は生きることのできない……自分だけの人生の物語だから」
そう答え、公開放送のプログラムの1つだったリコーダーの演奏中に唾を拭っていたハンカチの別の面で、私の涙とキム・ハナの鼻水を拭き取った。
キム・ハナと私の胸の中には、同じ形の穴が開いている。
とてもかっこよくて、ハンサムで大きな猫、ゴロの形をした穴が。その穴は私たち共通の喪失でもあり、思い出でもある。私たちが愛した存在の痕跡だ。
(翻訳/清水 知佐子)
【あわせて読む】
けんかもする。でも、ひとりよりずっと楽しくて豊か──。《シングルでも結婚でもない"女ふたり暮らし"》韓国発エッセイが示す新しい家族像
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら




















無料会員登録はこちら
ログインはこちら