漱石の名作は｢胃弱｣が生んだという大胆仮説。ジャムを丸ごと一瓶たいらげた男の､甘いものと怒りと名作の関係

そして、そうした不調のなかでこそ、彼は人の弱さや葛藤を鋭く見つめ、深い文学へと昇華させたのかもしれない。

体を整えることは、心を整えること

もし漱石が現代に生きていたなら、抗うつ薬や安定剤が必要だったかどうかは別として、まずは胃の健康や鉄、たんぱく質といった“体の基盤”のケアが重要だった可能性がある。

血糖値を穏やかに保ち、栄養を吸収し、エネルギー代謝を支える。それができて初めて、人は穏やかに考え、創造することができる。

感情は「心の問題」ではなく、「代謝の反映」である。胃と脳は迷走神経を通じて密接につながっており、身体のバランスが崩れれば、心の調子も揺らぐ。

夏目漱石という一人の作家の中では、代謝と精神が常にせめぎ合っていた。その不安定な身体の上にこそ、あの繊細で深い文学が築かれていたのであろう。

現代を生きる私たちも、体調のわずかな乱れで気分が不安定になったり、集中できなくなったりする。怒りっぽさや落ち込みは「性格」だと捉えられがちだが、漱石のエピソードを見ると、むしろ「体の状態」が感情を左右している場面のほうが多いことに気づく。

胃の不調が続き、十分に栄養を吸収できないと、気分は揺れやすくなる。甘味に偏れば、血糖が上下し、集中力や落ち着きは保ちにくい。吐血により鉄が失われれば、体と脳の両方がエネルギー不足に傾きやすい。

漱石の人生は、体調と感情が密接につながることを鮮やかに示している。怒りや不安、気分の波は「心の弱さ」ではなく「体のサイン」であるという考え方を、私たちに静かに教えてくれる。

著者フォローすると、小池 雅美さんの最新記事をメールでお知らせします。