高市・自民党が直面する「6度目の党存亡の危機」 結党70年を迎えた自民党が生き延びる「3つの道」

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3回目は88年に露見したリクルート事件だ。党内の4大派閥の長が全員、関係していたため、派閥総崩れとなった。その後遺症もあって、93年の新生党と新党さきがけの旗揚げによる「党史上で初の大型分裂」で、宮澤喜一内閣の崩壊と非自民連立の細川護熙内閣の発足という政変につながった。自民党は「党史上で初の野党転落」を体験した。

4回目は2000~01年の森喜朗内閣の不人気と不調であった。野党だった自民党は社会党・さきがけとの3党連立で与党復帰を遂げた後、自民党首相の橋本龍太郎内閣、小渕恵三内閣で辛うじて政権継続に成功したのに、森首相で再び野党転落も、というがけっ縁に追い詰められた。

「党史上初の第2党」と「2度目の野党」

5回目は2009年の麻生太郎内閣での衆院選大敗だ。「党史上初の第2党」と「2度目の野党」をしいられた。

6回目が岸田文雄内閣時代の23年に表面化した政治資金パーティーの裏金問題による党勢凋落である。24年に岸田首相退陣、石破茂内閣の発足、衆院選での与党過半数割れという展開となった(以上の各場面の詳細は、25年7月刊行の拙著『戦後80年の取材証言』の「第5項 六〇年安保」「第14項 田中首相失脚」「第38項 非自民連立政権の仕掛け」「第52項 加藤紘一の乱」「第59項 泥船首相・麻生太郎の沈没」「第79項 新首相の『いきなり解散』の賭け」で記述)。

自民党は70年間で、1955~93年の「長期一党支配」と呼ばれた政権担当の後、下野と政権復帰をそれぞれ2回繰り返したが、何とか党として生命力を保持してきた。70年間を通して、日本の政治・行政の舵取り、外交・安全保障での対応、経済・財政・国民生活・産業政策などの運営といった面で大きな役割を果たし、政治の安定に寄与してきた点は無視できない。もちろん大なり小なりに、時の民意が根強く自民党を支持してきたという実態があった。

議院内閣制の下で政権を担うのは、言うまでもなく国会での多数勢力である。国民のために安定政治は不可欠で、国会での多数の形成が何よりも重要、という発想と価値観は長い間、有効であった。自民党はそれを体現する政党を企図してきたのは疑いない。

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