何も社交辞令でいったわけではなかったようだ。京伝は馬琴が帰ったあと、弟に「今の男は、少しは才気ある者のようだ。もしまた訪ねてきたら、居留守を使わずに3階に通すように」と伝えている。
この初対面のときに、馬琴は京伝から「大栄山人」の名を贈られて、大喜び。2人は食事をしながら、長い間、談義を交わしたという。
蔦重のもとで出版のプロセスを学ぶ
その後、馬琴は京伝の家に頻繁に出入りするようになり、まるで従者のごとく仕えては、2、3日泊まっていくようなこともあったようだ。翌年には馬琴は「京伝門人大栄山人」の名義で、黄表紙『尽用而二分狂言』を刊行。京伝にサポートされて、戯作者デビューを果たした。
その後、馬琴は洪水によって深川にあった家を失うという不幸に見舞われると、京伝のもとに約半年間も身を寄せている。京伝の優しさが身に染みたことだろう。
それだけに、京伝の3作が絶版にされて、厳しい処分を受けたときには「何か自分にできることは」とも考えたに違いない。前述したように『実語教幼稚講釈』で京伝の代作を務めている。
その筋がよかったのだろう。蔦重に目をかけられることになる。京伝の推薦もあって、馬琴は手代として、蔦重に雇われることになった。馬琴は蔦重のもとで、出版の工程を川上から川下まで学びながら、京伝の代作も次々とこなした。
京伝のもとに飛び込んだ行動力が実を結び、蔦重のもとで奉公したことで、のちに大作家として羽ばたく下地を作った馬琴。その後は、履物商「伊勢屋」に婿入りをするも、商売に興味が持てずに、まもなくして文筆業に専念することになった。
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