フランス革命の象徴「断頭台"ギロチン"」は、本当に「人道的な処刑方法」だったのか?残酷な歴史から学ぶ「人権」と「フランス革命」の悲劇
1789年にはじまったフランス革命は、国王の国外逃亡未遂事件の失敗などを経て、やがて激化の一途をたどります。
1793年1月、国王ルイ16世は、ついにパリの革命広場で、ギロチンにかけられて処刑されました。同年10月には、王妃マリー・アントワネットも同様にギロチンで処刑されます。
現代の私たちにとっては、首を斬って頭と胴体を切り離すギロチンでの処刑は、非常に残酷に感じられます。しかし、フランス革命当時の人々にとっては、苦しむ時間が一瞬で終わる“人道的”なギロチンを使って国王と王妃を処刑したというのは、ある意味で“優しさ”だったのかもしれません。
ところが、こうして機械的に処刑ができるようになったがゆえに、ギロチンはその後あまりにも多用され、「恐怖政治の象徴」とみなされるようになっていきます。
ギロチンが多用された「恐怖政治」の到来
革命では、急進派が台頭していきました。そして、「自由や平等を広める」という名目のもとで、人々の自由が厳しく制限される恐怖政治が、ロベスピエールらによってはじまりました。
このとき、封建的特権の無償廃止がなされ、農民らには土地や自由がもたらされました。ところがその一方で、反革命勢力とみなされた人物を次々とギロチンで処刑する、恐怖政治が行われたのです。
ギロチンで処刑された人の数ははかり知れず、ロベスピエールの恐怖政治だけで、1万6000人もの人々が処刑されたともいわれます。ギロチンがおかれた革命広場は、「常に血のにおいが充満し、猫一匹近づかなかった」という記録もあるほどです。
ちなみにこの革命広場は、現在は「コンコルド広場」と名を変えて、パリ五輪ではスケートボードなどの競技も行われました。
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