日本が一夫多妻制だった平安時代「恋文を父親が代筆」「女はよそに通う男を待ち続け…」 貴族たちの驚きの恋愛観

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ですから、先ほどの和歌のやり取りでも、父親が代筆することもよく見られたと言います。幼い娘の代わりに、まわりの大人たちが代筆するということは、当時よくあったようです。逆に、「これ、本人が書いていないな」と男性側にバレて、恋愛熱が冷めてしまう話も出てきます。

そんな形で恋愛は進み、夜、女性のもとに忍び込みます。そして結婚は、女性のもとに男性が3日間連続で通ったときに成立しました。ここからも分かる通り、女性に結婚することの選択権は現代のようにはなかったようです。ただし、断る権利は女性にはあったようです。断ろうと思うなら、家に入れなければいいわけです。

3日連続で女性のところに男性が通うと、女性の家で、女性の父親と母親が出てきます。そして、三日夜の餅をみんなで食べて成立します。この後は結婚したことになるので、男性の家に女性が住むのかなあと思うと、当時はそのようにはなっていません。

一夫多妻制の通い婚

結婚のシステムも全然違います。現代で「結婚」といえば、夫婦が同じ家に住み、生活を共にすることが当たり前ですよね。しかし、平安時代の貴族社会では、それとはまったく異なる結婚の形が存在していました。

平安時代の上流階級では、男性が夜ごと女性の家に通う「通い婚」が一般的でした。結婚しても夫婦が同居することは少なく、多くの場合、女性は生家に住み続け、夫が訪ねてくるというスタイルだったのです。

では、なぜこのような「通い婚」が主流だったのでしょうか? それには、当時の社会制度や住環境、女性の立場などが深く関わっています。まず、貴族の女性たちは父親や兄弟の庇護のもと、身分を保ちながら育てられています。

先ほども説明した通り、結婚しても家を出ることは稀でした。また、当時は、一夫多妻制です。男性は、たくさんの妻を持つことができるという生活を送っていたため、女性を自宅に迎え入れて同居することは現実的ではなかったのです。

例えば、『源氏物語』において主人公・光源氏の正妻は「葵の上」です。しかし正妻だからといって同居しているわけではなく、彼女のもとに通っています。

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