タワマン住民のなかにも地域に根を下ろす人はいるものの、長い歴史が育んだ地縁には、まだ越えがたい壁があるようにも見えた。では、そもそもこの地域にタワマンが建ち始めたのは、いつ、どのような経緯だったのか。その背景を少し振り返ってみたい。
佃地区は徳川家康が漁師たちに与えた土地
タワマンが林立する佃地区。再開発の歴史は都内でも屈指の長さだ。東京駅から直線距離で約2キロメートル、銀座や日本橋などのビジネス街が近い。そんな地の利が行政からも開発業者からも魅力に映ったのだろう。
また、古くからこの地区のランドマーク的な存在だった⽯川島播磨重⼯業東京⼯場の跡地という広大な土地もあった。

1986年に超高層住宅地「大川端リバーシティ21」の巨大プロジェクトがスタートした。そこから2010年まで、約20年をかけてプロジェクトは完成した。これは、ウォーターフロント(都市部の水辺に面し、一般的に再開発によって商業施設やオフィス、住宅などが集まるエリアへと変化したエリア)の先駆けと言われている。その後も大小の開発が進み、今では佃地区に10本以上のタワマンが建っている。
この連載では、隣り合う月島も過去に扱った。月島で出会った「相田書店」の相田俊郎さんが「佃島のリバーシティ21が整備されはじめたのは僕が20代のころだからタワマンには慣れっこなんですよ」と語っていたことを思い出す。

東京都中央区の佃地区は、江戸時代に埋め立て造成された「佃島」が原形となっている。埋め立てを始めたのはこの地に住む漁師たちだったという。彼らは1644年(正保元年)に幕府から拝領した鉄砲洲(現在の湊・明石町)沖の干潟約181メートル四方を埋め立てた。この漁師たちと佃の縁は江戸時代より以前にさかのぼる。
「佃(つくだ)」と聞いて、まず思い浮かべるのはやはり「佃煮」であろう。当地には佃煮を専門に扱う老舗がまだいくつか残っている。そのひとつ、創業1837年(天保八年)の「株式会社 天安本店(東京都中央区佃1-3-14)」の案内書きには、以下のような説明が記されている。

1582年(天正十年6月2日)、明智光秀が本能寺の織田信長を襲った。その動きを察知した徳川家康はすぐに、三河への脱出を開始、大阪、兵庫の海辺へと急いだ。
途中、神崎川にさしかかったとき、船がなくて困っていた一行のために素早く漁船を集めて助けたのが摂津国佃村(現在の大阪市西淀川地区佃町)の漁師たちであった。
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