いきなりセンシティブな話題から入ってしまいましたが、こうした「言葉の定義」の誤解による「話が通じない」現象は、至るところで起こっているのではないでしょうか。
特にSNSが広く普及し、知識量も背景も千差万別の人々がいっせいに、しかも多くの場合は200字足らずの短い文章で発信するようになった近年では顕著だと思います。
知識の幅が狭く視野狭窄な人が「自分が正しい」「わからない人はバカだ」と断じ、いらぬ分断を生んでいる現実もあるでしょう。
「教養」は「雑学」とは違う
ちなみに、簡単に説明すると、「暴力装置」とは社会学者マックス・ウェーバーが唱えた政治概念で、「国家が自身の領域内の秩序維持、犯罪の取り締まり、外部からの攻撃に対する防衛など、正当な暴力を行使するための組織」を意味します。
その意味においては、自衛隊はまさしく「暴力装置」。警察だってそうです。
にもかかわらず、世間でも与党内でも「暴力」という言葉尻を捉えて脊髄反射的に非難した人の声が大きくなり、「政治学用語としては間違っていない」とする少数の声はかき消されてしまいました。
他者と対話をするには、まず「どういう意味で、その言葉を使っているか」を共有していることが大前提です。知人同士のカジュアルな会話であっても、ケンカになる大半の原因は言葉の行き違いだったりします。
まして、この社会について議論するときには、人類の歴史や経済、政治、宗教から芸術に至るまで、ひととおりの知識を共有したうえで話す必要がある。
つまり、それなりに実のある対話をするには、最低限の「教養」が必要だということになります。『全人類の教養大全』は、その点のニーズに見事に応えていますね。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら