地震報道で話題「悪石島」での暮らしはどんなものか→銀行も病院も飲食店もない、島民《全員顔見知りの島》で小学校教師が暮らした5年間
ボゼ祭りでは先祖の霊を迎え、1週間盆踊りを行う。最終日には太鼓の音が鳴り響く中、3人の若者がボゼに扮して広場に現れ、赤土をつけたボゼマラと呼ばれる棒で人を突いて回る。
この土を付けられると御利益があると言われるが、子どもたちはこの異様ないでたちを見て大泣きしてしまう。


ビロウの葉の腰みのを巻き、赤土と黒で彩られた巨大な仮面をかぶったボゼの異様な姿から、ボゼ祭りは「奇祭」とも言われている。ボゼが去った後は、観光客も含めた大宴会が行われている。(コロナ禍では中止)
対馬丸の慰霊碑を守る島民たち
悪石島のある十島村は、地形的に、歴史に翻弄された土地でもあった。太平洋戦争中は空襲や魚雷による攻撃を受け、終戦後はアメリカ領になった。
1944年8月22日、沖縄から本土への疎開児童を乗せた民間船・対馬丸が悪石島近海を通った際に、魚雷の攻撃を受け、子どもも含めた疎開者たち1484人(※正確な人数は諸説あり)が亡くなった。
悪石島には対馬丸の慰霊碑があり、毎月22日になると、島の小中学生たちで清掃して手を合わせている。8月22日には島民総出で清掃、お参りをする。

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