“正しさ”だけでは決められない──「よりよい決断」に必要な思考法とは?ノーベル賞学者が教える「価値観と思考」の授業の中身
人はみな、自分にとってうまくいくことを願っているものではないか(あなたも例外ではないだろう)。だから、うまくいかなかったときのことや後悔したときのこと、結果的に自分が不利益を被った決断を下したときのことは、ほとんどの人が思い出せる。
いくら自分のこととはいえ、どうすれば自分にとってうまくいくかわかっているとは限らない。複雑な医学に関することに限らず、自分が専門としない分野はたくさんある。自分にとってうまくいくことだけを望むのであれば、すべての意思決定をその道の専門家に任せるべきではないか。
この発想は、ほとんどの人にとっては悪夢に思えるだろう。たとえそれが「正しいこと」だとしても、いつ何を食べるべきか、どういう種類の薬を摂取し、どういう種類の治療を受けるべきか、どの職種に就くべきか、どういう団体に属するべきか、どういう運動をし、どういう人と恋愛関係になるべきか、といったことを、自分に代わって専門家が決める社会を想像すると、地獄のように思える。
誰だって、「専門家」の助言を捨て置く権利は持っておきたいものだ。だが、そういう権利を残すのは非効率ではないか? あなたからすれば、「専門家」といえども間違うことはあるだろうし(そのとおりだと思う)、あなたにとっての最善を、あなたほどには理解できないと言いたくなるかもしれない。
たしかに、その言い分には一理ある。しかし、人には自己破壊の衝動に駆られる可能性があることもまた事実で、それはそれで地獄だ。
なぜ決定権を譲ることを受け入れがたいと感じるのか?
そう考えると、あなたが影響を受ける決断の決定権は、専門家だけに持たせるほうがマシな結果が生まれるだろう。であるならば、そのようなかたちで決定権を譲ることを受け入れがたいと感じるのはなぜなのか?
その答えは当然、少なくとも民主主義社会で育った人は、自分は自由なひとりの人間で、固有の権利と義務を担うと教わったからだ。だから、ひとりの人間としての自由が認められ、尊重されることを期待する。
ここでもう一度、心臓発作で倒れて意識を取り戻し、どの治療にするかを問われたシチュエーションを振り返ろう。