“正しさ”だけでは決められない──「よりよい決断」に必要な思考法とは?ノーベル賞学者が教える「価値観と思考」の授業の中身
はっきり言って、その状況をどう評価してどのような決断を下すかは、あなたにかかっている。あなたにとっての最善を知っていると主張する専門家たちの言いなりになるわけにはいかない。結局、決めるのはあなたなのだ。
「他人のために決める」際に注意しなければいけないこと
しかし、自分自身の幸いのためではなく、決断を下す能力を持たない誰かのために重要な決断を下さねばならない場面も多々ある。
たとえば、あなたの祖母が死に瀕していて、完全な回復は見込めないとしよう。彼女の意識はなく、生命維持装置につながれている。あなたは祖母から、装置のプラグを抜く権限を事前に託された。その権限を使うとするなら、いつ行使するべきか?
AIを信奉する人なら、「コンピューターにその判断を委ねれば、最善の医学的エビデンスや統計的エビデンスを可能な限り検証し、最適なタイミングを導き出してくれる」と言うだろう。
たしかに、私たちにはとてもできそうにない複雑な計算がたくさん行われることだろう。その計算は、祖母や現状の医学的知識に関するありとあらゆる情報を考慮したうえで行われる。
だが、そのような状況の場合、決断を下すのはあなたでないといけない。祖母から決断を託されたのだから、コンピューターに任せるなどあってはならない。「コンピューターが祖母を往いかせてやれと言ったからプラグを抜いた」と口にするなどもってのほかだ。
考慮の対象となる重要な根拠や意見をコンピューターに提供してもらうことはあっても、それらを理解して比較検討し、最終決定を下すのはあなただ。
たとえ決断を下す前にたくさんの人の意見やコンピューターの判断に耳を傾けたとしても、結局はそうした意見に従うとしても、自分の保護下に身を委ねた人に関する重大な決断は、自ら下す。それが自由で自律したひとりの人間であるということだ。
自分のための選択をすることと、高齢の身内やがんと診断された子ども、言葉を話せない赤ん坊、あるいは動物や植物、無生物に関する選択をすることは、別物のように思える。
畜産を例にあげよう。畜産を営み、家畜に健康に育ってもらいたいと願う畜産農家の人々には、何世紀にもわたって積み上げられてきた管理の仕方についての知恵と科学があるので、そういう情報が活用されることを期待する。彼らが牛に相談せずに決断を下していても、問題視されることはない。