「スタバでフラペチーノを買うのは何のため?」、無理してテンションを上げる現代人。哲学者が考える"常時接続の世界"「しんどさ」の正体
スポーツバーで試合を見たり、SNSでも誰が選抜されるか、あの選手の怪我はどうか、監督の采配がどうかなどについて話したりするのは、きっと楽しいことでしょう。
しかし、それほど勝ちを望んでいるにもかかわらず、応援チームが賄賂などによって勝利を確保していたとすれば、その人は怒り出すに違いありません。その意味で、この人は「チームの勝利」を望んでいるわけではないのです。
パスカルは、似たようなことを、ウサギ狩りに行こうとする人にウサギを渡したり、ギャンブルを楽しんでいる人に儲け分をあらかじめ渡したりするといった喩(たと)えを出して説明しています。
私たちが熱中している活動の結果(前述の例で言えば「ウサギ」や「儲け」)は、実際には活動の目的ではない、と。
活動で退屈や不安から気を逸らしているだけ
では、何が本当の目的なのでしょうか。パスカルは、「退屈や不安から目を逸らすこと」にほかならないと考えました。曰く、あらゆる活動や交流は、人間の抜きがたい退屈や不安から目を逸らすための「気晴らし(divertissement)」なのだ、と。
「気晴らし」は、かつて「気散じ」とも訳されていました。退屈や不安は、いずれ死が訪れるという人間の悲惨な運命を思い出させるものです。そういった気分から注意を逸らし、発散させているというニュアンスがここにはあります。
気散じ(=注意が分散している)というのは、人が自分の悲惨さに注意を向けることを怠っていることから来ている言葉です。ちなみに、パスカルが人間を「葦(あし)」という頼りないものに喩えたのも、人間が悲惨な運命を持っていると考えたからでした。
より悪いことに、人間は単に気晴らしするだけに留まりません。気晴らしの諸活動を通して、つまらない虚栄心や承認欲求を満足させようとしているのです。
説明の事例としてパスカルが持ち出すのは、ビリヤード、研究、そして戦争です。
なかなか攻撃力が高いというか、「ウッ……」ってなる言葉ですよね。パスカル自身が数学者なので、これは自分に向けた言葉でもあるでしょう。
スタバの新作フラペチーノを買うのは、スタバでフラペチーノを買っている自分を買うためであり、何か名の知られた人たちと交流するのは、そういう人たちと一緒にいる自分として満たされるためである。こんな風に、パスカルの発想はたいていの活動に当てはまります。
注意してほしいのですが、虚栄心や承認欲求を指摘する論法は、他者を傷つけるために磨かれた議論ではありません。「結局人は承認欲求のために動いている」「自慢するためにやったんでしょ」「プライド高いからな、あいつ」「そう言っているのは認められたいからだ」などと指摘して悦に入るような人間のことを、パスカルは「最も愚かな者」と呼んでいます。
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