一方で、高校は大学入試とは関係なく予測不可能な社会に対応するための基礎学力を付けているだろうか。文科省は“東洋大学問題”で早期の学力試験はルール違反だとするが、ならば、いかに基礎学力を判定するのかを問われる。
高校生の探究学習・活動の評価は適切か
この後の大学側と高校側の協議に注目したいが、そもそも「大学教育にふさわしい準備とはなにか」を大学は提示できるかを問われることになるだろう。
高校では「総合的な探究の時間」が導入されて、探究学習・活動の成果発表会が行われている。そこに登場して講評をする大学教員がいるが、果たして研究ではない「探究」、つまり研究と探究の違いをどのくらい理解しているだろうか。
私は、毎年、成果発表会に呼ばれて講評することがあり、大学関係者と同席することがあるが、募集に苦しむ大学の関係者は「よく頑張りました」のような褒めることだけで終わる。探究にゴールはないのだから今後の取り組みへのフィードバックは必要だろう。
社会課題解決に取り組むものの中には、Web検索すれば出てきそうな解決策が示されることがある。自分たちでは解決できそうもない課題に取り組み、結果として「調べ学習」で終わってしまうケースも多い。大学教員としてフィードバックすることはいっぱいあるのに、それができない、資質を問いたくなる教員に出くわすことが何度かあった。
フィードバックに関する理解なしには総合型選抜で、探究学習・活動を評価することはできないだろう。
こうした「探究」という学び方を学んだ学生に大学はどのような教育をするのだろうか。高校までの学校教育における学び方と大学での学び方は異なるはずだ。だから中等教育では学習者が「生徒」であることに対して高等教育では「学生」と呼ぶことになるのだ。
少子化で人口が減るのは学力中下位層だけではない。学力上位層も同じように減る。そうしたときに東京大学をはじめとする難関大学の入学定員はいまのままでいいだろうか。彼らはビジネスでも研究でも競争のある社会に入っていくことになる。その準備は十分かを問い直す必要もあるのではないか。
難関大学でも、少子化によって定員が変わらなければ学力が下がる。教育や研究での個別の対応が求められるケースも増えるはずだ。これまで以上に、より基礎的なところから教えなければならなくなり、教育に時間がかかるようになるだろう。
いまのカリキュラムで十分だろうか。そして、いまの定員は多すぎないか。そうしたことを議論しても良かったのではないか。
このように、AIやEdTechの進化にかかわらず、いくつもの課題があるはずだ。そうした議論をしないで、高等教育の「再構築」は見えてこないのではないかと考えるのは私だけだろうか。
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