とは言え、大学進学率は徐々に上がっている。大学進学者の学力の幅は広がり、大学進学の目的も多様になっているのではないだろうか。
まさに大学は「ユニバーサル段階」にある。また、受験生を見ていると、受験による学習へのインパクトが弱まり、「大学教育にふさわしい準備」ができているかどうか怪しい面もある。
大学入試という側面から大学を捉えれば議論すべきことは山ほどあるし、ここから今後の大学の在り方も見えてくるのではないか。
時代の先行きが不透明なときこそ
大学を語るうえで、入学する学生の存在は教育に限らず研究においても重要なファクターである。彼らの中から研究を担う学生が生まれるからだ。研究大学においては、いかに研究者としての資質のある学生を選抜できるかは大きな問題だ。
今回の答申にまつわる議論もこうした側面からの検討が必要だったのではないか。しかし、そこには審議会としての限界がある。中央教育審議会は文部科学大臣の諮問機関である。短時間で結論を得られなければならないので、諮問の課題を絞り込み、議論が拡散しないように、不自由な議論にしかならないのだ。
ステークホルダーが多いようなテーマだとそれに合わせて委員も増えることがある。実際に中教審メンバーを新規に13名任命している。「船頭多くして船山に上る」にならなければ良いが。
こうしたところに文科省幹部の自信のなさが見え隠れする。自分たちで議論をコントロールする自信があれば少人数でも成果を出せるはずだ。このままでは、文科省職員の調整相手が多くなるため、職員の疲弊につながらなければ良いがと心配する。
そして、会議において、事務局の説明が長いとすべての委員が発言できなかったり発言は1回までに規制されたりすることもある。とても自由闊達(かったつ)な議論にはならない。
このような状況では、多岐にわたる議論は期待できず、審議会の限界を感じる。今回の答申も少なからずこうした限界があったのではないか。
時代の先行きが不透明なときこそ、なにかに偏ることなく、広く学ぶことに価値が出る。時代がどう変わろうとも、その変化に対応する力が求められるからだ。もちろんいままで以上に学ぶ必要がある。
ところが、大学は少子化による定員割れ、募集停止に臆病になっている。AIの進化とは別に、少子化の要素だけで十分に今後を占えそうなことだ。以前から何度も書いているように、どんな方式であっても大学入試での審査で「学力の三要素」を問うことが求められているが、果たしてそのあたりは十分なのだろうか。
特に、年内入試と言われる選抜時期の早い「総合型選抜」「学校推薦型」では十分に基礎学力を問うているだろうか。こうしたことも問い直すべきだったろう。
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