日本理化学工業はなぜ知的障害者を雇うのか 幸せを提供できるのは福祉施設ではなく企業

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ところが就業体験に来た2人の女性は、とても熱心に働いてくれました。製品が入った箱にシールを貼るという簡単な作業でしたが、本当に真剣に取り組んでくれたのです。それを見たほかの従業員が、「こんなに一生懸命やってくれるんですから、雇ってあげたらどうですか。私たちも面倒を見ますから」と私に言ったのです。それで「2人くらいなら何とかなるかな」と、翌年その女性たちを採用しました。それがわが社の障害者雇用のスタートです。

究極の幸せは「当たり前」の中にある

人間にとっての幸せが「仕事」の中にある

ただこの時点でも、私が知的障害者を雇ったのは決して前向きな理由からではなく、単なるなりゆきのようなものでした。その認識が大きく変わったのは、それから3年ほど経った時のこと。知人の法要に出席した際にその寺の住職と話をする機会があり、私はふと思いついてこんな質問をしてみたのです。

「うちの工場では知的障害者が一生懸命に仕事に取り組んでいます。施設に入って面倒を見てもらえば、今よりずっと楽に暮らせるのに、なぜ彼女たちは毎日工場へ働きに来るのでしょうか」

すると住職はこう答えました。

「人間の究極の幸せは4つあります。1つ目は、人に愛されること。2つ目は、人に褒められること。3つ目は、人の役に立つこと。4つ目は、人に必要とされること。だから障害者の方たちは、施設で大事に保護されるより、企業で働きたいと考えるのです」

その瞬間、私は自分の考えが根本的に間違っていたことに気づきました。人は仕事をして褒められ、人の役に立ち、必要とされるから幸せを感じることができる。仲間に必要とされれば、周囲と愛し愛される関係も築くことができる。だから、彼女たちはあんなに必死になって働こうとするのだと。

私は日ごろから従業員たちに、「今日もよく頑張ったね、ありがとう」と声を掛けていましたが、私にとっては、単なるあいさつにすぎませんでした。でも、知的障害者の人たちは、心からうれしそうな顔をするのです。健常者がごく当たり前だと思っていたことの中に、人間の究極の幸せが存在する。そのことに私自身が気づかされました。

それ以降、私は知的障害者の雇用を本格化させました。経営者として「人に幸せを提供できるのは、福祉施設ではなく企業なのだ」という信念を持つようになったからです。今の日本理化学工業があるのは、知的障害者の従業員たちが導いてくれたおかげ。私や健常者の社員たちの方が、「働く幸せ」とは何かを知的障害者から教えてもらったのです。

働く喜びを知ることで、知的障害者たちが変わっていく姿もたくさん目の当たりにしてきました。

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