蔦屋重三郎「江戸の出版聖地」進出できた納得の訳 ついに日本橋に店を構えることになった蔦重

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大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎
皇居の富士見櫓(写真: massyu / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は蔦屋重三郎が、江戸の出版の聖地に進出できた背景を解説します。
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再起を図った重三郎

安永9年(1780)、江戸の出版人・蔦屋重三郎は、突如、年間15種もの書物を刊行します。その中には、武士でもあり、戯作者でもある朋誠堂喜三二(本名・平沢常富)が書いた書籍が3種もありました。喜三二は、江戸の老舗出版社・鱗形屋から書籍を刊行してきた人気作家です。

その鱗形屋は、鱗形屋の主人が罪に問われたことにより、経営が傾き始めます。重三郎もまた鱗形屋の系列であり、その煽りを食うことがありましたが、喜三二をはじめとする文芸界の人々との交流を生かし、再起を図ろうとしたのでした。

同年、喜三二が蔦屋から刊行した書籍(黄表紙)に、絵を描いているのが、北尾重政(1739〜1820)です。

喜三二は武家の出でしたが、北尾はそうではありません。江戸で書店を営む須原屋三郎兵衛の長男として、生を受けたのです。しかし、彼の興味関心は、出版業にはなかったようで、独学で絵を学び、ついには浮世絵師になってしまいます(家業は弟に譲ることになります)。

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