蔦屋重三郎「江戸の出版聖地」進出できた納得の訳 ついに日本橋に店を構えることになった蔦重

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北尾は、絵だけでなく、俳諧や書も嗜む多芸の人でありました。後進の育成にも力を注ぎ、門下には、北尾政美・北尾政演(山東京伝)・窪俊満らがいて、北尾派の形成につながりました。

北尾は「安永・天明期(1772〜1789)の浮世絵界の重鎮」と評されるまでになりますが、そのような人物が、蔦屋の出版物に絵を寄せてくれたことは、まだ弱小出版社に過ぎなかった蔦屋にとって、うれしいことだったでしょう。

安永9年は蔦屋重三郎にとって、前述のような理由から、転機となった年でした。

安永10年(1781)に刊行された『菊寿草』という黄表紙評判記(著者は、大田南畝)には「鶴屋・村田屋・奥村・松村・西村・いせ次・岩戸屋」という江戸の有力版元と並んで、「蔦屋」の名が記されています。

もちろん、蔦屋の名は最後(末尾)に記されてはいるのですが、一流の版元と肩を並べるほど、蔦屋が急速に台頭していることがうかがえます。

重三郎は人気作家に支えてもらった

安永10年(天明元年)には、蔦屋は7種の黄表紙を刊行しています。その中でも売れたのは、朋誠堂喜三二が上梓した『見徳一炊夢』、『一粒万金談』(絵:北尾政演)、『漉返柳黒髪』でした。

『菊寿草』において、喜三二も北尾も、それぞれ作家・画家として高い評価を与えられています。蔦屋が『菊寿草』で、一流の版元と肩を並べることができたのも、安永9年に人気作家に執筆してもらい、それなりの実績を上げることができたからでしょう。

大田南畝は、天明2年(1782)にも、黄表紙評判記『岡目八目』を刊行していますが、そこでも蔦屋から出版された書籍『景清百人一首』(著者:喜三二)や『我頼人正直』(著者:恋川春町)に高い評価を与えています。

こうして、一時は経営不振に陥った蔦屋でしたが、安永9年、安永10年(同年4月に天明に改元)、天明2年の約3年で、経営は立ち直り、軌道に乗っていきました。

天明3年(1783)9月、蔦屋重三郎が、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の丸屋小兵衛の店を買い取り、そこを本拠としたこと、それができたことも、その表れでしょう。

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