蔦屋重三郎「江戸の出版聖地」進出できた納得の訳 ついに日本橋に店を構えることになった蔦重
江戸日本橋は、有名書肆(書物問屋・地本問屋)が軒を連ねていた「江戸出版界の聖地」のような場所です。
鶴屋・村田屋・松村が通油町、奥村屋は通塩町、西村屋が馬喰町、岩戸屋は横山町に店(いずれも日本橋)を構えていました。
![大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎](https://tk.ismcdn.jp/mwimgs/8/e/570/img_8eefa3f1b0e2e4461bc206cc28a19b7b288127.jpg)
そのような場所に、吉原から進出したことを見ても、重三郎の自信と覚悟が分かります(吉原の店も営業は継続していました)。
丸屋小兵衛の店は、草双紙などを販売する書肆でしたが、蔦屋に買収される頃には、おそらく経営がうまくいっていなかったと思われます。
時代の変化に合わせて次々と新しい戦略を打っていくことによって、生き残ることができる。それは、今も昔も変わらないのかもしれません。そして、蔦屋が台頭してきたとは言え、挑戦を忘れてしまえば、丸屋小兵衛の店と同じ運命を辿ることになるでしょう。
有力な版元も次々と作家と組む
蔦屋重三郎と喜三二のコンビに対抗するかのように、有力版元も、清新な作家と手を組んできます。
例えば、鶴屋は山東京伝。奥村屋は市場通笑。西村屋や岩戸屋は伊庭可笑、伊勢屋は桜川杜芳とタッグを組みました。つまり、黄表紙出版の競争が激化してきたのです。
この競争を蔦屋重三郎はどのように乗り越えていくのでしょうか。『菊寿草』のなかには、蔦屋を快く思わない人のセリフ「なんだ外に板元もない様に、つた屋を巻頭とは」(なんだ、ほかに版元もないかのように、蔦屋ごときを巻頭に置くとは)とも記されていますが、同書が刊行された安永10年には、そのように感じている一般民衆が多かったのでしょう。
蔦屋というと吉原情報誌「吉原細見」を刊行する弱小版元くらいに多くの人が感じていた。その評価をどのように覆していくのか、蔦屋重三郎の挑戦が始まります。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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