台湾ルーツもつ人気映画監督が描きたい歌舞伎町 映画監督・萩原健太郎さん単独インタビュー
家政婦さんは日本人でしたが、台湾で長く暮らしていたので祖母との会話も台湾語で、家の中には台湾の空気感が漂っていました。ただ、母は日本生まれで台湾語も中国語(華語)も話せないので、家族のルーツや台湾の歴史について聞くことは一切ありませんでした。僕にとっては祖母の家そのものが「台湾」を感じさせる場所だったと思います。
幼い頃に何度か台湾に行ったり、親戚が日本に来たりすることはありました。ただ、自分が「ナニ人なのか」ということについて、あまり意識したことはありませんでした。アメリカの大学に行ってから初めて自分の民族的なアイデンティティーについて考えるようになり、自分のルーツについて調べるようになりました。
――萩原監督の祖父・林以文さんは台湾出身の実業家で、戦後の東京・歌舞伎町の発展の基盤を築いたともいわれ、台湾の故郷には図書館もあるそうですね。元々の出身は、台湾の名家として知られる霧峰林家がいる台中の霧峰ですね。
そうです。ただ、祖父のルーツは霧峰林家とは直接関係はありません。ただ霧峰林家の林献堂(※)とは親しかったようです。亡くなっていた祖父と会ったことはありませんが、祖父について書かれた手記や歌舞伎町にいる祖父の写真を見てきて、祖父の姿や人柄がだんだんと輪郭を結んでいきました。
歌舞伎町で会社を興した祖父の影響
映画興行やエンターテインメント施設の運営などを手がける「ヒューマックス」は祖父が創業した会社で、母の兄弟が日本やアメリカで関連事業を展開しました。子どもの頃は家族で歌舞伎町の「地球飯店」という一族が経営していた中華料理屋によく通ったのは、懐かしい思い出です。
――映画監督になりたいと思ったのは、お祖父様の影響もありますか?
娯楽が身近な環境で育った影響は大きいと思います。劇場や映画館だけでなく、ゲームセンターやパチンコ、おいしい料理を提供して人を楽しませるレストラン、そんなエンターテインメントな文化の中で育ちました。
僕自身も映画が大好きで、日本やヨーロッパ、アジアの映画も見ますが、特にアメリカ映画に子供の頃から親しんできました。その楽しさやワクワクする気持ちが、今でも映画を作る原動力になっています。自己表現やアートとしてのメッセージも大事ですが、見た人が元気をもらえるような、生きる活力になるエンターテインメントを届けたいです。
――映画監督を志したのは、いつ頃ですか?
高校生の時です。「人に喜びが与えられる、クリエイティブな仕事がしたい」と思いました。最初はプロダクトデザインやファッションにも興味がありましたが、映画なら自分のやりたい要素をすべて詰め込めると気づき、演出という仕事にハマりました。
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