いつも直立不動で歌う東海林太郎お得意の股旅物『赤城の子守唄』の大ヒットは昭和9(1934)年。往年のジャズ・シンガー、ディック・ミネ(戦時中は本名の三根徳一で活動)の『人生の並木路』は、昭和12(1937)年のヒット曲、これも作曲は古賀政男だ。
女性では、ブルースの女王・淡谷のり子の『雨のブルース』のヒットが昭和13(1938)年。
日本軍の中国への侵攻が拡大、本格的戦時体制が整い、国家総動員法公布の年のヒット曲は、十分に反時代的な国民の願いを映していた。
演歌嫌いで、戦後歌謡界のご意見番だった淡谷は、五輪真弓の『恋人よ』を素晴らしいシャンソンと評価、自らカバーしている。
女優・高峰三枝子(父は筑前琵琶奏者・高峰筑風)の『湖畔の宿』は、日独伊三国同盟の締結された昭和15(1940)年の流行歌。高峰は戦後、TVワイドショーの司会者としても人気を博した。
軍歌が流行歌に代わった時代へ
戦時期の歌といえば、軍歌は欠かせない。敗戦の前年の昭和19(1944)年の『同期の桜』『ラバウル小唄』は、つとに有名だ。
同年には、ハワイ・ホノルル生まれの移民二世・灰田勝彦が歌った『ラバウル海軍航空隊』もヒットしている。
ラバウルはパプアニューギニアの島嶼地方で、日本軍が昭和17(1942)年に占領し、航空隊の基地を置いた地である。その後、連合軍に包囲されるも、終戦まで何とか持ちこたえた。
時代の推移とともに、マイナー・コード一色になる日本歌謡にあって、軍歌は例外的に許されたメジャー・コードだった。逆にそこから、ある切なさがにじみ出る。
昭和の終焉までは、深夜の電車で泥酔した高齢者が軍歌をがなる光景は随所で見られた。彼ら戦中派には、それ以外に歌える歌がなかったのだ。
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