大河舞台「江戸時代」それ以前と異なる大きな変化 地理と日本史を一緒に学ぶことで見えること
一方で、それは、「江戸で生まれている人が多い」ということを意味しません。現代でもそうですが、江戸の人口は、江戸以外の地域で生まれた人たちが江戸に来ることで増えていったのです。
現代でも特に発展途上国でよく発生することですが、基本的に人口は、労働力として子どもをつくる、多産の思考が強い農村部で爆発的に増えます。その人口の一部が都市部に流入することで、都市部の人口も増えていきます。したがって、江戸時代の中頃には、現代の発展途上国の人口爆発と同じ現象が発生したと考えられるのです。
このような人口増加が起きると、江戸や大阪の街で働く人が増え、都市部での経済活動もどんどん活発になります。文化もどんどんと広まり、食料品だけでなく、芸術品や陶器なども飛ぶように売れるようになりました。
絵画が売れて、葛飾北斎を代表とするさまざまな画家が誕生したのも、この人口増加が背景にあると考えられます。人口規模が大きくなった分、経済活動の規模も膨れ上がっていったわけです。
人口が増えたことでさまざまな問題も発生
ただ、人口が増えると、それだけ問題も多く発生するようになります。
実際、江戸時代後期には、天明の大飢饉(1782~1788年)や天保の大飢饉(1833~1836年)など、大規模な飢饉が連続して発生して、人口はほぼ横ばいをキープするようになります。
農村部では出産の抑制が行われ、その分、農村部から都市部に人口が流出することも少なくなっていきました。
1716年の段階で約3000万人だった日本の人口はほぼ横ばいとなり、1868年の明治維新の段階でも約3300万人だったと言われています。150年間、ほぼ増えていないわけですね。
人口増加のストップは、経済の停滞を招きます。これらの出来事により、幕府は経済的にもどんどん苦しくなっていきました。明治維新に至った理由は、もちろん外国勢力からの圧力も大きく影響していますが、国内でこのような問題を抱えていたことも1つの要因になったという見方をすることもできます。
いかがでしょうか?このように、人口規模という観点で日本史を見ていくと、今まで知っていたはずの日本史の出来事も、違った見方になっていくのではないかと思います。
逆に言えば、地理的な要因を知らずに日本史の勉強をしていても、得られる知識の量は少ないのです。さまざまな出来事の背景には、地理的な要因が存在していると言えるわけです。
日本史の勉強をする際には、地理も同時に勉強しないと、本当の意味で日本史を理解したとは言えないわけですね。
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