大河舞台「江戸時代」それ以前と異なる大きな変化 地理と日本史を一緒に学ぶことで見えること

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そして、江戸時代中期の1700年代中頃には、農業技術の発達や、埋め立てによる新田開発などが行われ、食料供給が安定し、人口がさらに増加しました。この頃の日本の人口は、ついに約3000万人に達したとされています。

江戸時代以前と比べると、江戸時代の人口は3倍以上に膨れ上がっているわけですが、これは「平和な時代が訪れたこと」に加え、農業の発展が要因になっているわけですね。

今でも日本全国に「新田」と名前の付いた地名(東大阪の鴻池新田・東京の武蔵野新田)は少なくありませんが、それはこの時代に作られたものだったとされています。

そして、人口が多くなるということは、その分だけ統治のシステムを効率的にしなければならなくなります。例えば、日本史の勉強をしている人の中には、「なぜ江戸時代はこんなに覚えることが多いのだろう」と疑問を抱く人が多いのではないでしょうか。

実際、江戸時代の政治体制や政治に関する用語が一気に増えますし、「享保の改革」「寛政の改革」など、おさえておくべき改革もたくさん出てきます。

文化についても、京都や大阪が中心になった「元禄文化」と、江戸が中心の「化政文化」の2つが登場します。

鎌倉幕府と江戸幕府の職制の違いを見ても、江戸幕府のほうが役職も多く、ごちゃごちゃしている印象を受けます。

統治のために複雑なシステムが生まれる

なぜ、江戸時代を境にこのような違いが生まれたのか? それはこの人口規模の変化が関係しているのです。統治しなければならない人も増えているわけですから、その分複雑な統治システムを作る必要があるわけですね。

ところでみなさんは、この当時の江戸(東京)の人口はどれくらいだと思いますか? 内閣府が公表しているデータによると、1700年代には江戸の人口は100万人を超していたのではないかと言われています。

今現在でも日本の中で人口100万人を超している都市は12しかないとされていますから、この時代に約100万人もの人口がいる江戸という場所の凄まじさがご理解いただけるのではないかと思います。世界的に見ても、この時代に100万人を超していた都市は存在していないのではないかという説もあるほどです。

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