堂々巡りの「石丸論法」を育んだ京大という"土壌" 結論を「出せない」のではなく「出そうとしない」

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となると、授業は難しい。教員側はわからせる気がないし、わからなくても良いと思っている。下手をすると「わからないほど良い」とすら考えていたふしもある。

京都大学を明らかに舞台にしている、絹田村子のマンガ『数字であそぼ。』(小学館、2018年)では、こうした、京大での「わからなさ」が、理学部数学科を舞台に、良く描かれている。

作中では「吉田大学」と表記されている大学では、学生がわかろうがわかるまいが、教員には関係ない。もしくは「わからない」と言われるほうが良い。学生ごときに簡単に理解されないレベルの高さを裏書きすることになるから、「なお良い」ということになる。

マンガ同様、京大の教員はそう考えていたのかもしれない。学生は「わからないのが当たり前」と思うしかない。こうなるとまた「学歴」をめぐるコンプレックスは醸造されにくくなる。わからないのが基本である以上、焦る意味も、劣等感を抱くこともないからである。

『数字であそぼ。』では、主人公の横辺建己が、「昔から学校の勉強なんて簡単だった」と思い出すシーンで始まるが、わずか11ページ後では、数学(微分積分学)の講義について、「考えてもないし 理解もできていない」と落ち込む。「思えばこれが人生初の挫折であった」と振り返り、シーンは、「2年が経った」とのト書きを経て、3年生に進学する直前の3月に移る。

多くの京大生も、これがデフォルトだったのではないか。

私もまた、これに近い体験をした。ここで重要なのは、こうした「挫折」を経たとしてもまた「学歴」をめぐるコンプレックスは醸造されにくい、という点である。

わからないのがデフォルトである。それよりも、もっと根本の部分で、自分自身が学問に対する向き不向き、さらに大きく言えば、生きていくことそのものへの適不適を考えさせられる。

ゼミはまるで「カラオケ大会」

京都大学で私が参加していたゼミの特徴は、カラオケ大会との印象が強かった。人の歌や発言は聞かず、自分が滔々としゃべる、というか、演説をする。話の流れを見つけるのは難しく、思いついたことを、思いついたタイミングで話していた。

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