堂々巡りの「石丸論法」を育んだ京大という"土壌" 結論を「出せない」のではなく「出そうとしない」
その「ユルさ」は、夜に限らない。昼ごはんに限らず、朝ごはんや、夜ごはんも、学食でとる人ばかりだった。理系の研究室が不夜城と呼ばれるのは、どこの大学でも共通するようだが、京大の場合は、帰れないというよりも、みんなが無意識に帰らない。帰ろうとしなかった。
本は生協の書籍部で買い、日用品やおやつも、もちろん生協で済ませるから、大学の構内から出る必要に迫られない。西部講堂という劇場・集会場の周りにはサークル部屋がたくさんあり、あえて外に場所を求めなくても良い。いや、外に出ようという発想そのものが出てこない。
これが都心の大学だったら、キャンパスを出て近くの繁華街やターミナルで遊んだりするのだろう。しかし、広大な敷地から出てもそういったものはない。朝から晩まで、さらに土日も長期の休みも、ずっと大学にいる。それが京大生の生活であり、エンドレスな議論を続ける「京大思考」の土壌になっているのではないか。
時には教員も朝まで飲みに付き合う
教員もしばしば飲みに連れていってくれた。大昔なら祇園に同伴してくれたのかもしれないが、「時代が変わったから」だけではない。大学の近くで教員もまたエンドレスの話に付き合ってくれた。
最低限の礼儀はあった(と信じたい)が、それでも、ほかの大学と比べれば、はるかに失礼というか、フランクだったに違いない。教員にとっても大学生や大学院生は、弟子という側面よりも「ひとりの知り合い」、ないしはその分野を研究するライバルとも見ていたのではなかったか。
酒の席で一緒になっても、それ以外でも「先生」との呼称よりは、「さん」付けが多かった。そう呼べる感覚だったというのも、その証だろう。
そんな調子なので、授業にあまり出ない(のが普通)とされてきた。私の在学中に、「5月の連休明けでも人(受講者数)が減らない」と教員が嘆いていたくらいだ。ただ、それから25年が過ぎた今では、もっと多くの学生が授業に出席しているのだろう。
25年前ですら「教室に人が多いですね」と驚く教員もいたので、京大では授業を聞く習慣はメジャーではなかった。授業を聞くぐらいなら、各自で勝手にする。勉強をしようが、サークルに熱中しようが、何だろうが構わない、これが学風だった。その認識を教員も共有していた。
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