トランプの「マックでバイト」笑えぬ日本人の悲哀 政治家の庶民派アピールに見る日米のセンスの差

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これらの前提を踏まえると、食事の象徴的な意味をあまりにも軽視し過ぎている日本の政治家たちのセンスが浮かび上がる。

まず食事は階級意識につながっている。社会学者のピエール・ブルデュー氏は、「食べ物の趣味は、それぞれの階級に特有な、身体についての観念、そして食べ物が身体に与える影響、すなわち身体の強さ、健康、美しさへの影響についての観念にも依存する」と述べ、それが「本質的に差違化の手段になる。それによって、人は自らを分類し、他者によって分類されるのだ」と主張した(『ディスタンクシオン 社会的判断力批判』石井洋二郎訳、藤原書店)。

もう一つは、ナショナリズムである。文化史家のパニコス・パナイー氏は、『フィッシュ・アンド・チップスの歴史 英国の食と移民』(栢木清吾訳、創元社)で、白身魚のフライと棒状のポテトフライを組み合わせたフィッシュ・アンド・チップスが、どのようにしてイギリス人の「国民食」になったかを明らかにしたが、このようなナショナル・アイコンの重要性にあまりにも無頓着なのかもしれない。

この点、まだ、トランプ氏のほうがましと言える。マクドナルドはアメリカの食文化の象徴のようなものだからだ。

その生産の場で働くことは、ナショナル・アイコンの力に寄りかかることにほかならない。食べる側ではなく、食べ物を提供する側に立つということが大きな違いだ。

マクドナルド本社がトランプ氏の店舗訪問とはいかなる関係もないと表明し、火消しに回ったのはその影響を重く見た面もあったのだろう(同社のフランチャイズの店舗は、所有者によって独立して運営されているため、本社の同意なしにトランプ氏の訪問を許諾することが可能だという)。

パフォーマンス目的であることが見え見え

今回のトランプ氏や日本の政治家に共通して重要なポイントは、先の知見に裏付けられた食事の「境界的」な機能の部分だ。

近代化によって食品の加工技術は進化し、市場が世界化されると、食べ物が「民主化」されるようになると指摘したのは、社会学者のデボラ・ラプトン氏だ。と同時に「このような社会的な変化はあるものの、食べ物は依然として、その値段や希少性、そして何より文化的な意義といった要因から、境界を示すものとして重要である」と述べた(『食べることの社会学 食・身体・自己』無藤隆・佐藤恵理子訳、新曜社)。

この場合における境界の“越境”は両義的である。境界を越えることは侵犯であることを意味するが、隔たりをなくす融和の意味も持ちうる。

マクドナルドを宣伝に利用したトランプ氏への罵詈雑言や、日本の政治家の弁当、牛丼写真に対する反感は、それが自分たちの食文化に土足で踏み込むような「ふざけた侵犯」と受け取られたからだという見方が成り立つ。「庶民的食文化の盗用」と言ったら言い過ぎであろうか。

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