1966年5月5日、北ベトナムのホー・チミン主席が空軍支援を要請する親書を当時の北朝鮮の最高指導者である金日成氏に送り、これを金氏が受諾。同年9月に北朝鮮と北ベトナムは派兵協定に署名し、北朝鮮は朝鮮人民空軍の第203軍部隊を派遣した。
上述したように第203軍部隊は、1966年10月下旬から11月上旬ごろに北ベトナムに派遣され、1967年5月20日までに実戦配備された。その後、1969年ごろまで活動記録があるという。
北ベトナムが戦闘機や食糧などを北朝鮮に提供し、北朝鮮からはミグ17戦闘機のパイロット24人に加え、支援や後方、行政業務担当の113人などを含め約150人が送られた。
実戦ではどうだったのか。1966年から1969年まで、北ベトナム空軍が撃墜したアメリカ軍機は222。そのうち26機を第203軍部隊が撃墜し、北朝鮮側将兵の戦死者は14人だった。戦死者の墓は当初、ベトナムにあったが、2002年に北朝鮮に移送されている。
1973年10月に勃発した第4次中東戦争に前後して派遣されたエジプトでも、北朝鮮は空軍パイロットを派遣した。1973年6月初旬ごろにパイロット30人、航空管制官8人、通訳5人、指揮官3人、医者と料理人各1人が派遣された。
中東戦争でF4戦闘機を撃墜
同年10月6日にエジプト・シリア連合軍がイスラエルに侵攻して始まった第4次中東戦争だが、10月18日にはイスラエルと北朝鮮が交戦したとアメリカが発表。この時はイスラエル軍のF4戦闘機を4機、撃墜している。開戦前の8、9月にも2~3回、イスラエル空軍と小競り合いを繰り広げている。
後に「派兵された将兵は全員健康である」と金日成氏は述べており、戦死者はゼロだったようだ。また、シリアへの派遣 も決定されたが、派遣されたのは停戦後だったと宮本教授は説明する。
エジプトに派遣することになった背景として、当時の金日成主席は中華人民共和国の国連加盟を目の当たりにし、自国も国連を舞台にした外交にシフトしていた時期だった。
北朝鮮としては「南北統一後の国連加盟」を掲げ、まずは北朝鮮単独での国連へのオブザーバー参加を目指した。そのため、オブザーバー参加への支持を得ようと国連加盟国に攻勢をかけており、とくに中東・アフリカ諸国との交流が活発化していたときだった。
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