父はモーレツに働く人で、子どもの頃、家でくつろいでいる姿を見ることはほとんどなかった。朝は四時半には起きて、自分で湯を沸かし、お茶を飲み、家族が起きないように準備をして、始発の東横線で会社に出かけていく。帰りはだいたい午後十時くらいだったと思う。酔っ払って無様な姿で帰ってきたところは見たことがないし、人の道に反したこともしない。国の模範囚のような人だった。だから僕は幼いとき、父と雑談をした思い出がほとんどない。七十五歳になった父と、「よし、話そうか」となるわけにもいかず、ときどき実家に帰っても、うまく話せたことがない。
ただ、先日ふと思い出したことがあった。その日、僕は取材と原稿の締め切りで、自宅に戻ったのが午前一時をちょっと回っていた。いつも通り、まず靴下を脱いで洗濯カゴに入れて、風呂場に直行した。デニムをめくり上げ、熱めに設定したシャワーで膝から下を石鹼で洗っているときに、ふと父とのことを思い出した。
それは三十年以上前の秋の始め頃のこと。母が閉め忘れた窓から、冷たい夜風が寝室に吹き込んでいた。僕は掛け布団をはいでしまって、眠気と掛け布団を探したい気持ちがせめぎ合う。目をつむったまま探していたが、どうしても掛け布団が見つからない。そこにまた冷たい夜風がスーッと吹き込む。僕はブルッと震えて、仕方なく目を開け、掛け布団を探すことにした。
そのとき、居間の電気が点いていることに気づく。僕は眠気まなこで、這うように居間を目指す。するとそこにはスーツの上着がハンガーにかけられ、丸まった靴下が形跡を残すかのように、ソファに置かれていた。風呂場の電気が点いている。僕は導かれるように、風呂場に向かう。風呂のドアはすこしだけ開いていて、その隙間から湯気がもくもくと立ち上っていた。
「お父さん」
ズボンの裾をめくり上げ、シャワーの湯で入念に足を洗っている父親の背中に思わず声をかけてしまった。
「おう、起こしたか」
一日働いて帰ってきた父は、あからさまに疲れ切っていた。そのあと、二、三言葉を交わしたはずだが、なにを話したのかは思い出すことができない。
父のアドレス
取材と原稿の締め切りをなんとか終わらせ、ほとほと疲れ切り、熱いシャワーで足を洗っていた僕は、ふとそのときの父の顔を思い出した。父がやっていた儀式を、自分がやっていたことに、いまさらながら気づいた。
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