プロペラ動力も研究「新幹線を開発した男」の人生 「兵器に関係しない」鉄道へ転じた航空技術者
この計画が持ち上がった背景としては、東海道本線・山陽本線の輸送が逼迫しつつあったところに、1931年の満州事変勃発、1937年の盧溝橋事件からの日中戦争への突入という流れの中で、東京―下関間、さらに朝鮮半島・満州への一貫輸送が重視されるようになったことがある。
さらに、南満州鉄道(満鉄)では1934年11月から大連―新京(現・長春)間を結ぶ超特急「あじあ」号が最高時速130km(表定速度82.5 km)で運転開始(1935年に運転区間をハルビンまで延長)し、日本本国の特急「燕」の最高時速95km(表定速度69.6km)を大きく上回ったことから、広軌鉄道の優位性が意識されたこともあった。
弾丸列車計画は1940年3月、第75回帝国議会で予算通過後(15カ年継続計画 総額約5億5610万円)、戦時下のため強引に用地買収が進められるとともに、新丹那トンネル(小田原―三島間)、日本坂トンネル(静岡―浜松間)、新東山トンネル(名古屋―京都間)の各トンネル掘削工事が進められるなどした。だが、その後の戦況の悪化により工事資材および要員の確保が難しくなり、計画は中止された。
弾丸列車計画それ自体は頓挫したものの、「計画の内容、とりわけ東京―大阪間はほんの一部を除いて、戦後の新幹線とそっくり同じ」(『新幹線を航空機に変えた男たち 超高速化50年の奇跡』前間孝則)だったことから、戦後の東海道新幹線建設に当たって、買収済み用地(東京―大阪間515.4kmのうちの約95km分)やトンネル(新丹那トンネル、日本坂トンネル)など、その資産が大いに役立つことになる。
窮地の「新幹線構想」を救った三木
戦後、新幹線建設の検討が開始されたのは1956年5月、輸送量が限界に達していた東海道本線の線路増設を検討するために国鉄本社に設置された「東海道線増強調査会」においてだった。
当時、国鉄総裁だった十河信二は、かねて広軌新幹線構想を温めていた。若き鉄道官僚時代に十河は、鉄道院総裁・後藤新平の薫陶を受け、鉄道広軌化の実現計画を考案したことがあった。しかし、憲政会(広軌化推進)と政友会(地方未成線の建設優先)の間の政争の具に利用され、実現することはなかった。
「終生、後藤新平を恩師と慕い続けた」(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉)という十河にとって、70歳を過ぎて回ってきた国鉄総裁の座は、恩師・後藤新平の果たせなかった鉄道広軌化の夢を実現し、恩を返す千載一遇のチャンスだった。
ところが、この調査会では、国鉄の財政状況や世の中の経済見通しから、広軌別線(新幹線)建設への慎重意見が根強く出され、議論は堂々巡りの様相を呈した(調査会では広軌別線案のほか、既存の線路に狭軌の線路を併設する狭軌併設案、狭軌別線案も検討された)。
業を煮やした十河は、「昭和16年かに広軌の複々線を既に着手したのである。これは充分検討の結果決定したことと思うので今更検討の必要はないとも実は思つていたくらいで、(中略)直ぐに結論が出ると思つていた」(第5回議事録)と、戦前の弾丸列車計画も引き合いに出すなどしながら、慎重派の説得を試みた。
だが、こうした必死の説得も慎重派の抵抗に遭い、具体的な結論が出ないまま、1957年2月の第5回を最後に調査会は散会となったのである。
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