プロペラ動力も研究「新幹線を開発した男」の人生 「兵器に関係しない」鉄道へ転じた航空技術者
このように窮地に陥った新幹線構想を救う、特筆すべき役割を果たしたのが三木だった。1957年5月30日、鉄研創立50周年記念行事の1つとして、その研究成果を、一般聴衆を集めて公表する講演会が催された。演題は「超特急列車、東京―大阪間3時間への可能性」(会場:山葉ホール)。講演者は三木忠直(車両について)、星野陽一(線路について)、松平精(乗心地と安全について)、河邊一(信号保安について)の4人だった。
この講演会で三木は、当時、存在感を増しつつあった航空機への対抗の見地から「東京―大阪を列車で3時間で結ぶためには、450~500km程度の距離(東海道本線は約560km)の広軌別線を敷設し、最高時速210km(表定速度170km、平坦線均衡速度 250km)ぐらい出さなければならない。車両は流線形、軽量、低重心の電車形式が有望」と自説を語った。
さらに、講演会に参加できなかった十河ら国鉄幹部に対して、後日、国鉄本社で行った説明会の席上で「この列車をつくらないかぎり、鉄道の未来はありません」と言い切った。
「実験には自信」開業前に鉄研を去る
当時の鉄道の状況を見ると、前年の1956年11月に米原―京都間が電化され、ようやく東海道本線の全線電化が完了し、特急「つばめ」「はと」の東京―大阪間が7時間半に短縮されたばかりだった。また、ビジネス特急「こだま」(東京―大阪間6時間50分)が登場するのは、翌1958年11月という時代である。それを3時間で大阪まで行くというのだから、まさに度肝を抜くような話だった。
講演会の内容は、マスコミを通じて報道され話題となり、一般の人々に「夢の超特急・新幹線が間近に迫っている」という期待を抱かせた。十河はこの効果を最大限に利用し、講演会から1カ月後の7月2日、宮沢胤勇(たねお)運輸大臣に対し、東海道本線の増強に関する適切な配慮を要請。次いで、8月30日の閣議決定を経て、運輸省に日本国有鉄道幹線調査会が設置された。
そして、講演会から4カ月後の9月27日、小田急SE車が国鉄(東海道本線)の線路を借りて実施したスピード試験で、当時の狭軌鉄道の世界記録となる時速145kmを記録。三木は、「狭軌ですら時速145kmが出せるのだから、広軌ならば時速200kmも夢ではない」と、じつに見事なタイミングで実証してみせたのだ。
それから6年後の1963年3月30日、神奈川県の鴨宮―綾瀬間(約32km)に建設されたモデル線で試験車両が、時速256kmという電車方式による世界最高速度(当時)を記録した。その様子を三木は自宅のテレビで見ていた。「自分の技術はすべて出し尽くした。実験には絶対の自信がある」との言葉を残し、すでに鉄研を退職していたのである。
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