プロペラ動力も研究「新幹線を開発した男」の人生 「兵器に関係しない」鉄道へ転じた航空技術者

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箱根山戦争に打ち勝つべく、東急グループ総帥の五島慶太から、「新宿から小田原まで2時間20分かかっているのを半分で走れ」との命令が下ると、同年10月に早くも特急(新宿―小田原間100分)を復活させている。

その後、小田急は特急用車両も順次投入していったが、特急需要の増大に鑑み、もっと斬新なコンセプトの高性能特急専用車両をつくろうという話が持ち上がった。そこで、三木の記事を見た小田急取締役の山本利三郎が、鉄研に車両の共同開発の協力を要請した。山本は国鉄出身で、スペインの連接車「タルゴ」に着想を得て、戦前から連接車の研究を行っており、戦後も小田急で高性能車の開発を進めた人物である。

当初、電気機関車による牽引方式だった三木の案は、小田急との話が進められる頃には、「将来の電気機器や駆動装置の改良発展を期待し」(『小田急3000形 SE車設計の追憶』三木忠直)動力分散方式の電車列車としてまとめられ、この案を基に1956年5月に、8両編成電車案のSE車(3000形)の仕様が決定した。

SE車の開発には、航空機開発のノウハウが存分に発揮された。まず、従来は最高でも時速100km前後で走行する鉄道車両の場合、走行時に発生する空気抵抗は、ほとんど意識されなかったが(空気抵抗は速度の2乗に比例)、SE車の開発に当たっては、航空機の設計では当たり前に行われていたモックアップ(模型)を使った風洞実験により空気抵抗が測定され、車体先頭部の形状設計に生かされた。

車体構造には航空機と同様のモノコック構造を採り入れ、車体の材質には航空機の分野では戦前から使われていた軽合金の使用が検討された。だが、SE車開発当時、軽合金は材料価格が高く、溶接技術も未熟だったために使用が見送られ、代わりに、従来の車両よりも半分近い厚さ1.2mmの耐蝕鋼板を採用した。ほかにも、鉄道車両では初となるディスクブレーキを採用し、床板をハニカム構造にして軽量化を図るなど、飛行機開発の技術が随所に採り入れられた。

SE車と三木忠直
小田急SE車試運転車両の前に立つ三木忠直(写真:三木忠直次女の棚沢直子さん提供)

戦前の「弾丸列車」どんな計画だったか

このように車体開発に航空機の技術を活用した点など共通点が多いことから、狭軌(SE車)と標準軌(新幹線)、連接車(SE車)と非連接車(新幹線)といった違いがあるものの、「SE車は新幹線のルーツ」と言われることが多い。

だが、より大きな歴史的な脈絡から見ると、「新幹線のルーツ」というべきものの本流として、戦前のいわゆる「弾丸列車計画」(正式名称は、広軌新幹線計画)がある。

弾丸列車は、東京―下関間に既存の東海道本線・山陽本線とは別に広軌(国際標準軌)新線を敷設し、機関車(東京―静岡間および名古屋―姫路間は電気、その他の区間は蒸気)による牽引式列車を、最高時速150km(将来的には時速200km)で走らせ、東京―大阪間を4時間半、東京―下関間を9時間で結ぶという、戦後の新幹線計画にも通じる革新的な計画だった。

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