"新宿野戦病院"が「コロナ後生きる私達」に響く訳 脚本家の宮藤官九郎が伝えたいメッセージ
そうしたなか、ラスト2話ではそれまでとは一転して緊迫するストーリー展開になった。
致死率の高い未知のウイルスによる危険な感染症が世界中で再び流行する。その日本人の最初の感染者が、アメリカ帰りの歌舞伎町ホストと報道されると、ウイルスはいつのまにか歌舞伎町ウイルスという俗称で呼ばれるようになり、歌舞伎町は苛烈な風評被害を受ける。同時に、感染症は国内に広がっていった。
先週の第10話では、歌舞伎町の聖まごころ病院の医師たちを中心にした医療従事者の視点から、数々の行きすぎたウイルス感染防止対策のほか、医療機関への国の補助金の実効性などにも踏み込み、アメリカとの比較も含めて、コロナ禍における日本社会のさまざまな動きのおかしな点を指摘した。
同時に、ヨウコ・ニシ・フリーマン(小池栄子)の立ち居振る舞いや精神性のすべては、次なる感染症による緊急事態が起きた際に、われわれがとるべき言動のひとつの見本を示した。
コロナ禍の教訓を得ていない社会へのメッセージ
そして、最終話では、ウイルスを克服して緊急事態宣言が解け、社会が再び平時に戻る過程が描かれた。
そこで映されたのは、コロナ禍のあとをそのままなぞっているかのようなギスギスした社会だ。
ネット空間では、自粛警察をはじめ、緊急事態宣言で時間を持て余す人が他人の粗探しをして攻撃する。攻撃された人は、またほかの誰かをターゲットにする。その繰り返しだ。緊急事態宣言が明けても、感染防止対策疲れなどで人々の心は荒み、マスクをしていないだけで人を責める。リアルの場でも人々の心はささくれだっている。
そこには、いまを生きるわれわれが、コロナ禍を経た教訓を何も得ていないというクドカンのメッセージがあるのではないだろうか。
毎年のように自然災害が発生するたびにSNSではデマが拡散され、それによる風評被害が起こる。ネットの炎上騒動は以前にもまして増えており、些細なことで謝罪に追い込まれる人が後を絶たない。誰もが正論を振りかざし、そこへの同調圧力が働く窮屈な社会は、よりひどくなっているとも感じられる。
それでいいのか。人間性が退化しているのではないか。そんな社会に対するクドカンの声が聞こえてくるようだった。
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