喫煙で辞退「宮田笙子」なぜあれほど批判されたか 意外と関係深い、アスリートと喫煙の歴史【前編】
その一方で、1994年11月14日号の『週刊大衆』(双葉社)の『ルポ 都立高校に「生徒用喫煙室」がある!?』という記事では、タバコをやめられない生徒たちのために、教室のひとつが喫煙室として利用されていることが報告されている。しかも、同記事によれば長野県でも同じ取り組みが行われていたらしい。これは監督責任には当たらないのだろうか……?
「嫌煙権活動」の大きな影響
ただ、喫煙者への世間からの風当たりが強くなったのは、この法律ではなく70年代後半から始まった「嫌煙権活動」の影響が大きいだろう。
今では考えられないが、昭和は列車、会社、飛行機でもタバコが吸えた時代。タバコの煙が嫌いな人間にとっては生きづらくて、しょうがなかったという。
そこで、1977〜78年にかけて、全国各地で嫌煙権運動市民団体ができ、国鉄(現・JR)の全列車に半数以上の禁煙車を求めて1980年に「嫌煙権訴訟」が行われる(全面禁煙を主張できないほど、当時は喫煙者のほうが多かったのだろう)。その後、全国各地の交通機関で禁煙化が進み、1985年には専売公社が日本たばこ産業(JT)として民営化される。
そして、1987年に嫌煙権訴訟は「受動喫煙の害・不快感は認められるが、国鉄車内における受動喫煙は一過性であって受忍限度の範囲内である」などを理由に請求棄却された。しかし、原告側は訴訟以降に国鉄車両の禁煙車および席が増加したことから、実質的な勝訴として控訴せずも確定判決となった。筒井康隆の喫煙者差別がもはや排斥運動となって過激化していく様子を、主人公である小説家が国会議事堂の屋根に座りながら振り返る『最後の喫煙者』が発表されたのも同じ年だ。
そして、2000年代に入ると嫌煙権は「受動喫煙防止」へと名前と運動が変わり、2002年に「健康増進法」が施行されたことで、これまでの嫌煙権活動は成功を収めた。
その後、喫茶店や居酒屋でもタバコの吸えない、喫煙者にとっては肩身の狭い時代が訪れるわけだが、禁煙車うんぬんの前に嫌煙権活動が行われていた時代は、未成年の喫煙率がとにかく高かった。
90年代に「タバコ問題情報センター」が未成年者の喫煙について調査したところ、1978年に比べて1990年の未成年者によるタバコ消費本数は、6倍にもなっていたという。そのため、1991年には『スモークバスター』(ぱすてる書房)という中学生向け禁煙読本までもが発売されている。本当に世紀末である……。
後編の記事ー体操・宮田笙子の「喫煙辞退」で得をしたのは誰か 意外と関係深い、アスリートと喫煙の歴史【後編】ーでは、スポーツ選手や著名人の喫煙スキャンダルと、その背後でうごめく写真週刊誌の事情を深掘りしていきたい。
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