埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も

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こうした民間の軍需工場で働く従業員が板橋区に居住するようになり、区内の人口は右肩上がりで増えていく。東京市に組み込まれた1932年における板橋区の人口は約12万人だったが、3年後の1935年には15万人を突破し、1940年には約23万3000人にまで増加した。

工都化に伴う恩恵は鉄道の整備にも波及していく。工員輸送を円滑化する観点から、1944年に都電が板橋町十丁目から志村(後の志村坂上)まで延伸。戦時下で労働力が不足していたため、同区間は勤労奉仕によって建設された。

板橋駅周辺は、1944年から終戦直前の1945年7月末にかけて10回以上もの空襲を受けた。空襲で工場も甚大な被害を出したが、これらの工場は戦後の復興期に板橋の経済・雇用・生活を支えていく存在になった。

1951年に産業教育振興法が制定されたことを受け、板橋区は1956年に産業教育センターを開設。同センターでは、中学校卒業生を対象に実習的な職業教育が実施された。板橋駅周辺に形成されていた工場群は、戦災復興と高度経済成長という追い風を受けて伸長した。

「工都」から住宅地へ

だが、それは同時に慢性的な労働力不足を生じさせることになった。東京都は隣接する神奈川県・埼玉県・千葉県から人手を賄ったが、それは通勤需要の増加につながった。国鉄は線路容量が逼迫していたために、急増する需要に対応できなかった。

こうした事態を解消するべく、国鉄は主要幹線の輸送力増強に取り組んだ。それまで赤羽線と呼ばれて赤羽駅―池袋駅間の短い区間を行ったり来たりしていた電車は、1985年に埼玉県と東京都を結ぶ埼京線に生まれ変わった。同時に大宮駅で接続する川越線が電化されて相互乗り入れも開始された。

赤羽線 踏切
板橋駅に隣接する踏切には、赤羽線の名称が記されている(筆者撮影)
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