埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も
ここまでの経緯を振り返ると、まさに板橋は「卵(工業化)が先か、鶏(鉄道)が先か」という言葉がよぎる。
近代工業化へのターニングポイントとなったのが、東京市電(現・東京都電)の延伸だった。1929年、巣鴨車庫から板橋駅の最寄り停留場となる下板橋(1944年に廃止)までの区間が開業したのを契機に、板橋駅周辺の工業化が一気に進んでいくことになる。
それを見越して、北海道の小樽を拠点とする板谷商船は「帝都北部の大文化住宅地」を謳い文句にした「上御代の台住宅地」の建設を開始した。
同住宅地は約5万坪におよぶ広大な敷地だったが、なぜ海運事業を主業務とし、しかも拠点を小樽に置いていた板谷商船が板橋に住宅地を建設したのかという理由は明確になっていない。不明な点が多いものの、板谷商船は内務省から住宅建設および隣地に公園を開設することを条件に同地を無償譲渡された。そして、1937年に約1600坪の公園と住宅地を完成させている。板谷商船が整備した住宅街の面影は歳月の経過とともに消失したが、現在も公園は近隣住民の憩いの場になっている。
軍需が支えた工業化
住宅地としての整備が進み、1932年に北豊島郡の9町村は東京市に編入された。ここから板橋駅周辺の都市化が一気に進展していく。地主たちは都市化を希求し、土地区画整理組合が次々と設立された。
この影響を受け、区内で操業していた工場数も一気に増加。東京市に組み込まれた翌1933年には186しかなかった工場が、1935年には274まで増加し、1940年には1980にまで膨れ上がっている。当時の板橋区は現在の練馬区域を含んでいるので単純比較は難しいが、これらの数字から板橋区内の工業化が一気に進展したことがうかがえる。
板橋区の工業化で主力となったのは民間の軍需工場だった。規模が大きな軍需工場は広大な敷地面積を確保する必要があったことから板橋駅から離れた場所に立地していたが、板橋駅の周辺にも双眼鏡製造の富士光学、航空機のプロペラ製造の秋水工業、防毒資材製造の日本化工といった軍需省・陸軍省・海軍省指定の工場が集積していた。
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