埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も

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埼京線 板橋駅 踏切
板橋駅の北隣にある埼京線の踏切。朝夕のラッシュ時間帯は開かずの踏切になる(筆者撮影)
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東京都板橋区・北区・豊島区の3区にまたがるJR埼京線の板橋駅は、2025年に開業140年を迎える。

板橋駅は、上野駅を起点に現在の東北本線や常磐線、高崎線などの路線網を築いた明治期の私鉄・日本鉄道が、東海道本線と自社線を結ぶ短絡線として建設した、赤羽駅―品川駅間の「品川線」の途中駅として1885年に開設された。

同時に開業した新宿駅と渋谷駅は、東京の発展と歩みを重ねるように副都心として成長した。両駅のその後の経過と比べると、なぜ板橋駅が同時に開設されたのか不思議に思う人は少なくないだろう。

赤羽駅から新宿駅までは距離があるので、その中間に駅を設ける必要があったという説明でもそれなりに納得できるが、板橋駅は決してそんな消極的な理由で設置されたわけではない。

「火薬製造の街」だった板橋

板橋駅があった地は、江戸時代から江戸四宿のひとつである板橋宿として栄えた。板橋宿は中山道最初の宿場町で、川越街道の起点という要衝地でもある。それだけに、明治期になっても人の往来が盛んだった。

こうした交通事情もさることながら、幕末から板橋一帯は火薬製造地として注目されていた。

鎖国を解いた江戸幕府は西洋列強に伍するべく近代兵器の研究に取り組み、最新技術を学ばせようと幕臣の澤太郎左衛門を欧州へと留学させた。澤が帰国すると、幕府は兵器に必要な火薬を大量生産する準備に取りかかる。澤は大量生産には機械の導入が欠かせないとし、その機械を動かす動力には水力が必要だと主張した。

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