埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も

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軍都を側面的に支援する工都の役割を期待された板橋だったが、鉄道が開業してからも、町工場がひしめきはしたものの家内制手工業の域を脱していなかった。

そんな中、都市計画法と市街地建築物法が1919年に制定される。これは建築できる建物の種類・用途の制限を定めた「用途地域制」を取り入れることを可能にした法律だった。これによって、都心部に大きな工場を新設することが実質的に不可能となり、郊外に熱視線が向けられるようになる。

とくに板橋駅周辺は、明治初期から工業化の萌芽があったことから注目を集めた。1920年には万世橋を起点に板橋駅を経由して大宮へと至る東大宮電気鉄道や、砂村(現・江東区)を起点に板橋駅を経由して大井町駅へと至る東京鉄道など、板橋駅を経由する鉄道計画が次々と浮上した。

東大宮電気鉄道と東京鉄道が申請した2ルートは競合が多く、前者は東京大宮電気鉄道に、後者は東京山手急行電鉄に免許が交付された。だが、どちらも板橋駅を経由する鉄道は実現できず、東京山手急行電鉄の後身が現在の京王井の頭線・渋谷駅―吉祥寺駅間を建設したにとどまる。

井の頭線 玉川上水
京王井の頭線の明大前駅付近。左側の空間に板橋駅を経由する東京山手急行電鉄の計画路線が通る予定だったとされる(写真:カプリコーン/PIXTA)

都電延伸で一気に工業化加速

さらに板橋駅周辺が大きな転機を迎えるのは、1923年の関東大震災だった。震災によって都心部および東側の下町エリアは壊滅状態に陥ったが、東京西郊の被害は軽微で、安全な住居を求めた人々は東京西郊へと転居した。その多くは現在の世田谷区や杉並区にあたるエリアに邸宅を構えた。

板橋区の広大な土地は工場地に適していたこともあり、政府は東京を再建させる意図も含めて東京府北豊島郡志村全域(現在の板橋区志村・小豆沢・蓮沼町・前野町・中台・西台)を1925年に工業地域内特別地区の「甲種特別地区」に指定する。甲種特別地区とは火薬や石油といった可燃性の強い物質を製造・取り扱う工場が設置できるエリアのことで、この指定によって板橋駅界隈は工業化が進むと期待された。

しかし、政府の思惑とは異なり板橋駅周辺には依然として農地が広がり、指定を受けたエリアへの工場進出は少なかった。工業化が進まなかった理由は、板橋の鉄道整備が遅れており、区内の工場へ通勤ができないことだった。

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